中原昌也個展@WAITINGROOM
コラージュ、絵の具の盛られた量は激しく、告知WEBやアルバムのジャケットだけで感じ取れるわけがなく、意味のない比較をすればゴッホを日本の美術館で見るよりかショックを受けた。それは糞ではなく、イッてる女性の喘ぐ顔、乳房、乳房だけじゃない、肌という肌を剥き出しに切り取られた女性という女性の手足、そして猫の瞳。『ソドムの映画市』のセクスプロイテーション映画をめぐる章から受けた衝撃や、氏がこだわり続けるジェス・フランコ鈴木則文という(僕にはやはり語りきれない)「ポルノ」の作家を思い出すまでもなく(神代辰巳曽根中生を並べることも可)、紛れもなく恥ずかしげもなくポルノ(補正された猫の瞳は無修正を売りにした性器と変わりないのだ、猫ブームに死を!!!!!)。改めて無数のやるせない存在へのこだわりに圧倒される。しかしコンビニの袋とじを開封するだけで暴かれる恥部によって飼いならされた先に抵抗する力を失うなどということだけはあってはならないのだ。廣瀬純氏の語る清順とリンクする。桜を眺めるかのようにポルノと猫の瞳を切り抜きながらこの国に生まれたことを恥じる。ここに積もる塊はどれもがプリクラのキラキラした目と一番似ている(しかしイッてる女性は瞼を閉じて口だけはあんぐり開き、画家の描く人物は白目を剝き出しにする)。興奮などしない。女性の乳房に意味を見出さない。ポルノにつきまとう孤独感さえ切断する。隠すことも晒すこともなく露出のエロにこだわることもなく、ポルノが切り取られ描かれ塗り重ねられる。この裸体は視線に反射をすることもなく、裸体を肯定することもなく、しかし困ったことに美しさを感じる。クローネンバーグの改造された肉体、というより脳が爆発し血潮の飛び散る瞬間に近いのか? そこに間違いなく存在するクリエイティビティさえ、所詮は精液の香りを漂わせるだけと消え入りそうで、しかしドス黒くてんこ盛り。やはりゴダール3Dとの接点なのか。

会期中、制作され続けるキャンバスには、豹たちの後ろ姿が描かれていた。キラキラした瞳の猫にはない佇まい。これぞユーモアなのだと突きつけられる愛らしさ。