『潜熱』

映画を見るたびに覚醒を促される。目覚めるために映画を見る。スクリーンに向けて目を開くために、もしくはスクリーンの外へ、現実へ目を向けるために、映画を見る。しかし現実は映画を見ながら寝てしまってばかりだ。もしくは映画だけ見ていれば満足と言わんばかりに夢を見続ける羽目に陥った。

『潜熱』(三毛かりん)は、事故によって目覚めることのない女性の周りで、彼女の目覚めを待っているような男女の映画だ。しかし彼女が眠り続けている限り、彼、彼女は現実に目を背け、夢を見続けているようでもある。

おそらく彼女は二度と目覚めない。そして目覚めない彼女に対しても、彼女が目覚めないことに対しても、映画はあまり現実的な態度は向けていないようでもある。むしろ映画が、もしくは(くだらない推測だが)映画の作り手が、眠り続ける彼女そのものに重ねられているような気がしてしまう。成瀬以上にあからさまな交通事故の存在。どことなくこっぱずかしくもなるモノローグ。自らの感性に忠実な音楽の使い方。『潜熱』もまた映画の男女に、観客に、覚醒を促す。登場人物は眠りの誘惑と、彼女を断ち切って目覚めることとの間で葛藤している。同時に映画そのものが目覚めなきゃ、目覚めなきゃと葛藤している。夢と現実の境界で、多少の恥ずかしさは隠すことなく、情熱は内に秘めながら、料理をし、酒を飲み、愚痴をこぼすことを繰り返す。そして夢も現実も、どちらも愛しく見ようとする。まさしく映画そのものだ。そして映画から正しく学ぼうという(僕自身には足りなかった)真っ当な姿勢を感じる。今すぐ劇場から飛び出して、陽の光を浴びたくなる。