映画美学校映画祭。『この世の果てまで』(川口陽一)と『瑠璃道花虹彩絵』(西山洋市)だけ。

『この世の果てまで』は『ジョギング渡り鳥』チームによる映画、という印象。監督が録音/音響スタッフだけあって当然音に意識が向かう。歌と、それを歌う人たちの映画だった。役者と音声がフレームに対し抵抗する感覚は鈴木卓爾監督の映画を思い出す。朗読された文章が同じ個所を延々言い回しを変えながら繰り返して先に進まないように聞こえるあいだ、女優が眠気を我慢しているように振る舞ったりするのがおかしい。また合唱の映画といえるあたりも鈴木監督を思い出す。最後の言葉は観客席からも復唱してみたくなる。鈴木監督の名前ばかり出すのは申し訳ないが、しかしここまで見ていて、聞いていて、物語らしきものがわからないのに(『ジョギング渡り鳥』はそのあたり不思議とわかった気になれる)、決して不快でも何でもないのは映画作りのドキュメントとなっているからだろうか……そのドキュメントらしさも『ジョギング渡り鳥』をどうしても思い出してしまうのだが。フレーム外の賑わいや頭部が時々切れる画面は、むしろ只石博紀の映画に近いかもしれない。

 

『瑠璃道花虹彩絵』は西山洋市ホン・サンスは共通項がかなりあると気づく。

まずは飲酒。『河内山宗俊』の雪が彼らの飲んだ酒なのだ、ということを青山真治監督は書いていたが(舞台挨拶で西山監督の弟子という点は強調されていた)、思えば『明日の朝は他人』の雪はモロに酒である。

画面の「非決定性」。一人二役なのか、一人の人間が嘘を吐いているだけなのか。本当に片目は見えないのか。主観かと思ったカットが、次にまだその場所に到達していないことで本当に誰かの見た目だったのか怪しいあたり、ホン・サンスにはない面白さだとも思う。

ホン・サンスのズームのように引っ掛かりはしないが、この映画の男女をともにフレームにおさめたりどちらかを外したりを行き来するように移動する撮影は、フレーミングへの意識で通じ合う(カットを割らない点でも)。詳細は二、三度見ないととても記憶できない映画だが、この映画のカップル、コンビとフレームの問題はとても重要だ(それは一人の女性によって演じられる姉妹も含めての話)。

おそらく夢の中でのヒロインの告白に続いて(ここでの音響の奇妙さも良い)、目覚めてからボンヤリ聞こえる音の、録音なのか劇伴なのかわからない感覚からの、むしろ次のカットでの坂道まで音に引きづられるように結末へ雪崩れ込む(ように思わせる)事件へ続くあたりの面白さ(坂道の重要性もホン・サンスと通じるか)。そしていつの間にか他の人物が本当のところどうなったのかわからないまま、彼の小説の世界として完結させているようにも思うあたり、(高野徹監督には申し訳ないが)『二十代の夏』よりずっとホン・サンスと拮抗しあいながら別の着地点へ必然的に向かう作家性の違いとしても感動する。

写真一枚がモノを言うかに見える芸能界を一応は扱いながら、ここまであっさりスキャンダル写真が消えて、代わりに出てきた写真さえもヒロインとの会話を経て、シーンが変われば誰に知られる必要もなく片付いてしまう気持ちよさが実は一番好きかもしれない(そのためか、彼が彼女に向けて言う「もう会えないかと思った」という台詞が不思議と美しく記憶に残りつつ、この男女をおさめる移動撮影のフレーミングが溝口、エドワード・ヤンを連想したくなるスリリングさがある)。

こうして書いていて西山洋市監督が一応は現代の「芸能」界を舞台に始めてから、一気にキャリアを振り返るように狂い咲く映画となったことに感動する。いろいろ話が変わるから、とりあえずは振り落されずに最後まで見ても、あとで思い出そうとするとわけがわからなくなるあたり恐ろしい。

既に葛生さんが二人の映画をどちらも詳しく書いているので(特に西山洋市

flowerwild.net - ただよう視線、ねじれる時間──西山洋市『INAZUMA 稲妻』

)こうして並べても不粋なだけかもしれない。

役者の中では松蔭浩之演じる元映画監督の執事が、舞台あいさつで触れられたようにそのものずばり『サンセット大通り』のシュトロハイムだけれど、そんなこと関係なく松蔭浩之は素晴らしい。同時にヒロインの母である米田弥央が階段を上ってくるカットも恐ろしく美しい。こうした点も含めて葛生さんの『死なば諸共』の感想が本作にも当てはまると思う。

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