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『二十代の夏』(高野徹)

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高野徹監督『二十代の夏』再見。

高野さんの作品では『お姉ちゃんとウキウキ隅田川』が特に好きだが、deronderonderonのPV『IKIL』と東京成徳のPR映画『おはよう』など、近作が人生における「船出」を扱ってきたことを思うと、頻繁に島から船が出ていく本作はむしろ未だに誰もが海の上か、島の周辺をさまよい続けているようなシニカルな結末にいたる。

『お姉ちゃんとウキウキ隅田川』では瀬田なつきをどうしても連想させる、デジカメのモニター越しに時制が曖昧になるカットがあったけれど、同時に隅田川を『巴里のアメリカ人』のセーヌ川に見立てていた。『IKIL』では山戸結希『あの娘が海辺で踊っている』のヒロインを主演にしながら『ジャッキー・ブラウン』の冒頭を思い出させてくれた。比較的手の届く連想させやすい範囲と、むしろ「あこがれ」の対象に近い作品と、そして女優選びの趣味性を結び付ける、高野徹さんの欲望のストレートさが好きだ。

『二十代の夏』はタイトルの「二十代」とともに時間も曖昧に過ぎていく。主人公には欲望があっても、その視点のストレートさに揺さぶりをかけられる。彼が欲望する女性はどうも一人の女性ではなく複数の役を演じているらしい。同時に彼は外見の異なる女性でも別に条件さえ整えば構わないという描写もある。

何より上映時間が変化しつづけている。おそらく42分の尺で固まっているのだろうけれど、本作にはどうも70分近くある『恋はフェリーに乗って』というバージョンがそもそもあったらしい。『二十代の夏』の上映時間がはたして作品の当初の狙いに沿ったものだったのかは怪しい。そもそも瀬田なつきを明らかに経由した『お姉ちゃん~』から『おはよう』での過去と現在の行き来は、男女の「船出」を物語る上でも外せない要素だった。しかし『二十代の夏』での時制は、まるで整理できず混乱した記憶や印象に未だ囚われたまま、主人公が幻想を抱いているのか、嘘つきなのか、見ている人を困惑させる。

クライマックスに『アデュー・フィリピーヌ』の、船出においてはなればなれになる男女を同一フレームにおさめる画面がいかにも用意されそうな物語上の仕掛けがありながら、むしろ女性二人は呆気なく画面外に消えてしまう。このあたりのシビアさが印象に残る。 

高野さんは『濡れるのは恋人たちだけではない』において神代を、『お姉ちゃん~』では瀬田なつきを意識していたのは明らかで、役者の身体性というか肉体というか「生っぽさ」があり、なおかつそれに合わせて映画自体が軟体動物のようにクネクネうねるような変化を実現したかったんじゃないかと思う(そしてその点においてうまくいっているのかきびしいあたりに意義がある)。ただ『二十代の夏』での高野さんの映画はむしろ濱口竜介やホン・サンスの映画を重視する方に傾きつつあるようだ。

 

高野さんの映画ではカメラを持った人物を登場させて、ここぞという時に役者のクローズアップを入れたり(それこそ『小さな兵隊』や『アルファヴィル』の頃のゴダールアンナ・カリーナを撮ったように)、または通行人のような人物を画面の隅ではなくむしろ中心に配置することで、どこか映る人物によって物語から逸脱させ、映画にドキュメント的な要素を取り入れる試みもあった。『二十代の夏』は思わぬところで、物語と関係なくアクシデントは二回ほど起きていた。ただ高野さんにおけるヒロインの役割が変わってしまったかのように、決定的なクローズアップはない。

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