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『人間のために』(三浦翔)

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※2016年のまとめで、改めて感想を書いた。

http://nakayama611111.hatenablog.com/entry/2016/12/31/014545

 

 

PFF@2016/9/11

『人間のために』三浦翔 結城秀勇 | nobodymag

 

最後の手紙なのか原稿なのかを読み上げる女学生の声と言葉と顔をもって、「見てよかった」と思わせるものがある。しかしこの映画で「問い」として成立していたカットは少ない。おそらく工事現場のカットだけだ。予想よりも慎ましやかに用いられるデモの映像は悪くない(横断歩道と警備)。パイプ椅子をめぐる「痛み」を、いかに観客に感じさせるかの「問い」は発せられる。しかし重要なのは映画から言葉によって問われた内容よりも、見ている人は映されなかったイメージを勝手に脳内から引っ張り出せる、つまり映画が何を言っているかとは関係ないかもしれないレベルで、映画は人に何かを言わせたくさせる時があることだ。その観客の反応によって映画はフレームを、枠組みを踏み外しうる(そのフレーム外を意識させるのが映画の重要なところだ)。パイプ椅子をぶつけられそうな瞬間のストップモーション以上に『カリフォルニア・ドールズ』の名前が出てきた瞬間、おそらく使用許可の下りない映像、画像の代わりに(はたしてアルドリッチが撮っていたかもわからない)髪を掴む女性、掴まれる女性の画を脳内から引き出して勝手に結びつけてみたくなる。

この映画には主題として「個人の言葉を喋れているか」という「問い」が貫かれている。この映画で「民主主義って何だ」をひたすら繰り返す時に、ほとんど言葉そのものだけがあって、その言葉から「問い」も「答え」も奪われている。言葉そのものしかないという感覚は、この映画でのパフォーマンス、学生たちによる演劇から自分が得るべきものだったのかは、よくわからない。「個人の言葉を喋れているのか」という「問い」は、役者たちが映画の役柄を演じられているのか、もしくはスタッフふくめて、この映画における技術的な欠陥らしきもの(と受け止められかねないもの)が果たして本当に「欠陥」と呼びうるのか、といった問題とともに結び付けたくなる。

「戦争したくなくて」なのかもわからない「震え」は思った以上に早く、むしろ最初の図書館のカットにのみ映されているかもしれない(それとも全編に渡って震え続けているのか)。棚におさめられたフランク・キャプラが表紙の書籍へ向けられた(昨日見た『フランシスカ』のカーテンに続き)わざとらしささえ感じるガクガクしたズームの「震え」。三浦翔監督が書いた『人間と魚ヶ浜』についての文章を思い出す、脚立の上での(もしかしたらわずかに震えているかもしれない)発声行為(

『人間と魚が浜』三野新 三浦翔 | nobodymag

)。口元と声のズレによって「失敗」したアフレコと、「安倍太郎」だけでなく、四人しか登場しない学生たちでさえ役を演じていると言えない、むしろ「学生映画」「自主映画」というもののイメージを示しているのかもしれないような授業のシーンが続く。ゴダールか、何かを参照したのかさえ、あえて考えさせる以前の段階に振り戻す。

はたして「学生映画」「自主映画」のイメージがどれだけの観客と今後共有できるのかはさておき(たとえばPFFにおいて他に上映される「学生映画」「自主映画」は、数多の自主映画の枠を踏み出したものと言えるのか)、それらは技術的な欠陥が果たして限界なのか、選ばれたものかを宙づりにさせるところがある(上から目線なら「もっと頑張れたんじゃないの?」的な)。この映画の技術的な限界を、どの程度まで示しているのか怪しい録音。同録かアフレコか選んだのか。行くところまで行くと『ホース・マネー』に至るかもしれないが、単なる拙さなのか。しかし飛行機の音が聞こえる場所で役者を喋らせ、酒の席で窓を開けっ放しにして車の音を入れるカットには明らかな意思がある。

不安定なのか挑発的なのか曖昧な、口元とズレた音声による台詞を交わしながら、二人の女学生がコーラを受け渡すショットが、どれだけ「投げる」というアクションを撮れているのかはわからない(そこには「戦後70年」だけでなく「映画史」の積み重ねが曖昧になっている)。しかしこの映画は彼女たちによって飛沫するコーラの泡を撮る(最も艶がある瞬間)。もしかすると『彼女について私が知っている2、3の事柄』における珈琲の泡へ向けられた顕微鏡的な視点に近いのかもしれない(工事現場のショットとの対比としても)。そこに技術的な欠陥とは別種の欲望が宿っているのか、視線にまつわる批評なのか、ユーモアか、それともカメラの性能を示しているだけなのか。そして二人の女学生に対して、消えていたはずの教授のあっけない登場。「安倍」に比べれば(もしかすると単に老け顔なのかもしれないが)思いのほか役にふさわしい身体をしている(ただし、やはりその言葉は演じきれていない印象の)教授と、女学生との切り返し、発声する彼女の顔に寄っては、走る姿に対して引くフレーミングには、映画のカット割りを学んだ人間による遊び心がある。

酒の席で語られる「中東」と、それを喋る役者(学生)は、その移動の経験を演じられていない。おそらく彼は「イスラム国」も「武器」も見ていない。そして『ヒロシマ・モナムール』のように問われることもない。「ここ」と「よそ」という問題を発生させているのかは、やはり曖昧だ。ただ「武器」は前述したパイプ椅子に代わり、彼の演じられていなさについては、後半の(おそらく役柄ではない)彼自身へ向けられたと思われる港でのインタビューによって、それ以上に、中国人留学生本人へのインタビューによって切り返され(この問答の長さは良い)、映画の作り手の視点、立ち位置、枠組みをある程度定めているとは思う。

技術的な欠陥を疑ういくつかが嘘だったかのように心に残るシーンがある。「中東」に行ってきたという学生と(後にある「行動」に出る)女学生とが並んでアーケードを歩く長回しは、はたして彼自身が本当に「中東」と日本との間での移動を経験したのかはさておき、アーケードでの男女二人の移動に伴って、フレームのわずかなブレ、揺れ、震えが持続する(『新宿泥棒日記』の朝焼けか、『H story』の夜更けか)。彼がかつて旅に出ると口にした時、それは「自分探し」の範疇としてしか周囲に意識されなかったが、彼が帰ってきたという前提があって「移動」として認識された。そんな台詞が音楽とともに聞き取り可能な距離でもって寄り添う。奏でられる音楽も、彼らの口にする台詞も、どちらも美しく調和している。そして直後の短い、手をつないだ二人の後ろ姿の切り返し。

わざとらしくユルッとした「野音裁判」にこそ、本当はあの窓からの車の、飛行機の音が被さるべきだったのかもしれない。その物足りなさと、主題を突き詰められていない印象を残す問答は意図的に重ねられたのか。その裁判を挟む「安倍」に振り下ろされる金槌も、「安倍」の手にしたナイフも、それが果たして暴力の瞬間をカットを割ることで処理している時に、単に技術的に撮れなかったのか、意識的に撮らなかったのかわからないうえに、どのみち芝居のユルさゆえに意思のなさだけは感じられるために、映画がパイプ椅子を通して発しようとした「痛み」の問いを、なかなか思い起こさせない。やはり階段、金槌、ナイフにこそ映画の肝はあるんじゃないか、という気もする(つまらないことを思ってしまったという後悔もあるが)。いや、むしろここで「痛み」の問題は忘れられ、この映画に渦巻く矛盾を感じるべきなのかもしれない。

 

※9/15 加筆