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(5/12 修正)

 

上田真之『部屋の中の猫』、見終わってから上田さんの話をもっと聞くべきだった気がする。自分の興味に引き寄せすぎて、何か物足りなさばかり感じてしまった。たしかに思い出してみると、絵を描いている人を目の前で見たことがない。

『部屋の中の猫』は女性が絵を描いているドキュメントでもあり、絵が完成したのかどうなったのかが、部屋の中の猫や、窓の外を吹く風と緑らとともに、曖昧なまま時間が過ぎていく。「過ぎていく時間を画面に記録する」という試みに対して、実際にこの映画が作り上げている時間は、まだ安易で戦略を欠いている気がした。たとえば演出にしろ編集にしろリズムが取れていれば、時間はいくらでも構わないと思うけれど、このリズムがあまりに単調すぎるのかもしれない(役者たちとの空気感も心地良すぎる気がする)。『息を殺して』もそのように刺激を欠いている映画だと思ったし、『みちていく』は文字通り90分の時間が「みちていく」映画だと思ったが、その収まりのよさが退屈だ。

絵を描く女性と猫を同時に収めるフレーミングが、まだ安全すぎるか(寝袋に入った女性の目覚める序盤にはハッとした)。個人的には(同じく茶会記で以前上映された)白岩義行『なしくずしのしゅうまつ』の寝転んでいる作家のまわりを行きかう犬を撮ったシーンの方が良かった。もしくは女性がピアノを弾き始めてから、その音を画面に乗せたまま彼女が絵を描くカットへつなぐ編集がわかりやすすぎて、情報の域に留まってしまうことの退屈さが原因なのか(たとえばジャン・クロード・ルソーの映画と比べて、「素材」が少なすぎるのか、撮る時間が短すぎたのか)。時折挟まれる室外のカットと風の使い方が、室内と室外のぶつかり合いとして刺激的になりそうなのに、どこか音が滑らかすぎるのか、それともショットの順番に問題があるのか、「不穏さ」としても雰囲気の域に留まってしまっている。

絵を描く彼女を撮る位置に、緊張感と上品さを感じさせるところと、その意識が猫にも向けられているところがあって引き締まるだけに、余計(失礼ながら)何かが足りなく勿体なく感じたのかもしれない。その物足りなさの原因を考えさせる映画だ。