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『ヴァンパイア 最期の聖戦』(ジョン・カーペンター)を見直した。もう動物相手にやったらNGな狩りでも吸血鬼ならOKという戦略が映画を延命させている。『ザ・ウォード』の看守が黙って読書している短いカットを挟んでいるような、登場人物ほぼ全てに向けられた視点に惹かれる。十字架を欲望する吸血鬼、神は見えず吸血鬼なら見えることを否応なく納得させるマクシミリアン・シェルの枢機卿。生き残ったハンターが神父の手を切りつけ、首に突き立てて自白を迫る。噛まれてしまってからの相棒が、これまた吸血鬼と化しつつある女性に対し、服従とも、やや紳士的とも取れる行動をとる。『ゼイリブ』のような男二人の徹底した殴り合いはもうない。『遊星からの物体X』のように二人でじっと待つことで終わりもしない。吸血鬼を追う以上に、吸血鬼から選ばれた存在であるジェームス・ウッズと、その相棒との最後の抱擁、彼の首元に吸血鬼と化しつつある友人が顔をうずめていて(それでも噛んでいないのは間違いないと思わせる因果がこの映画を通して語られている)両者の人間か吸血鬼か、立場の曖昧さが不思議と涙腺を刺激する(トビー・フーパー『スペース・ヴァンパイア』にしろ吸血鬼から選ばれた人間という存在に惹かれる)。何かがハッキリしていないことが、ひとつの画のなかに凝縮されている感動。映画における非決定性が、人間か吸血鬼か聖職者か悪魔かの境も越えて交わされる何かを残す。噛まれた首元に火を当ててでも、吸血鬼に照準を向けてきた矢でもって十字架を射抜かせるもの。ジョン・カーペンターだけでなく、思えばいろいろな映画に曖昧さがあるからこそ心に残るものがあった。比べると、たしかに『岸辺の旅』(黒沢清)の着地点、浅野忠信のカットを割って消えてしまうのは、曖昧さを欠いてしまっているかもしれない。