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『瞼の裏 三年寝太郎』 10/7~13@旧加藤家 上映作品

新作『瞼の裏 三年寝太郎』(17分予定)、作品解説。

 

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撮影:投野慶太

 

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撮影:中山洋孝

 

上映日程そのほかはこちら。

nakayama611111.hatenablog.com

 

瞼の裏 三年寝太郎

脚本・監督・編集:中山洋孝

撮影:中山洋孝、投野慶太

出演:尾形友利亜、桜井智広、内山丈史

 

携帯電話で撮影された猫の動画。猫から許可はもらっていない。『私は猫ストーカー』(監督:鈴木卓爾)のように、慎重に礼儀正しく相手との距離を縮めていく過程を怠り、ただカメラを向けた。

「旧加藤家」での許可をいただき、近隣でお住まいの方にご迷惑おかけしないこと、原状復帰を約束して、10月3・4日の二日間、両日とも10~16時頃まで、おおよそ脚本通りに、友人との撮影を終えた。

女が自分自身の朗読を撮影した後、物語は始まる。

三年前。女は同棲中の恋人からの、おそらく三日ほど続いた電話に出なかった。男は電話をかけるのをやめ、互いの関係性について「思考」することに決める。彼女は「感情的」になっただけであり、彼の語る「思考」、または「理解」に対し疑問を覚える。男は断じて理論的な人間ではない。ただ漠然とした、自分自身を失うことへの不安があった。

それからの三年間。彼女の家に、別の男が出入りする。おそらく一人ではない。その誰もが恋人とは、ましてや肉体的な関係があるとは思えない。男の一人は「想像力」(妄想?)を鍛えていた。男は彼女を中心としたグループの一員でしかない不満に耐えられない。そんな彼に想定外の事態が襲うも、彼女からの評価につながる行動はできない(いや、評価されようという態度に問題が潜んでいる)。

彼女はただ自分自身の力で、この「旧加藤家」を出て、映画は物語ることをやめる。はたして、公園を駆けていく少年少女、国会前の抗議集会に参加した時の映像は、この作品の倫理的な性格を問うことになるか。

男女の関係以上に、社会的な状況は変化している。しかし彼らは、まだ自らの視線の問題しか話すことができない。ただ自らの言葉で語るはずが、自分自身のことを自分のイメージの枠でしか語ることしかできていない。幼稚な段階から先へ踏み込んだ議論を試みる以前に、相変わらず、言い訳を繰り返す。

以前見た映画から技術的に学ぶ、真剣に見ることをせず、ぼんやりとしたイメージでもって真似しようとして、刺激が失われる。明らかに間違った舵取りを続ける現政権に対し、自らの言葉でもって訴えることを試みる人々に付いていきたいのに、自分自身の言葉で語る勇気を持てず(学習も足りず)、もしかしたら僕自身にもあるかもしれない、たとえば職場から状況を明確にさせるための一歩が踏み出せない。

この映画は同じ映像や音声を繰り返し、以前見たありきたりなイメージも転用され、さらに安易、かつ、許しがたいレベルで物語と現状が結びついていると詐称しているかもしれない。僕自身の活動は、誰にも連帯を表明できるレベルに、到底達していない。撮影しようという行為と、目の前で起きている出来事との間に広がるズレ(落差?)は伝わるかもしれない。

本作に関わっていただいた、すべての方々に感謝しています。大学を卒業してから、こうした楽しい撮影ができるとは思いませんでした。撮影前に耳を傾けるべきだったかもしれない言葉に対し、向き合わなかったことへの後ろめたさも覚えつつ。