久々に日記。

上映用に編集を終えて、作品を届ける&会場のセッティングのために、蕨の旧加藤家へ。ほとんど周りのかたがたのおかげで安心して終える。

投野くんの撮影した映像をぼんやり眺めてしまう。嫉妬する。

19時に我慢できず『最後の命令』(ジョセフ・フォン=スタンバーグ)。恥ずかしげもなく言うと、『省エネ生活党宣言』の編集終えた夜は『紐育の波止場』をヴェーラで見ていた。どっちもスタンバーグと似ても似つかないが。しかし圧倒。序盤10分のエキストラたちを見ていると、今までと全く別の意味で「映画は戦場」という言葉が脳裏をよぎる。しかしスタンバーグエミール・ヤニングスには『嘆きの天使』を初めて見た時から、心を乱されるものがある。イヴリン・ブレントの銃を見つけてしまってからの、あの「捕虜」という言葉が出てくるまでの、一つ一つに涙腺を刺激される。ヤニングスとブレント、そしてウイリアム・パウエルの、裏切り、立場の逆転、その過程での一人一人を収めた厳密なショットと表情から醸し出される、人間の複雑さ、意味の多様さ。活弁と伴奏は魅力的だったけれど(ある場面で声を止めていて感動)、やはりそれでもこの複雑さを言葉、声にするのはほぼ不可能じゃないかと思ってしまう。この異様さは、革命がそれぞれの地盤を揺らぎ、不確かにするからなのか。そこに匹敵するのは男女の、そして男と男の間の、沸き立つ感情なのか。そしてこちらの感情をひたすら震わせるが、どこへ落ち着いて行くべきかわからない、あの最後の命令。あれを声にできる人間は存在しない。革命の描写もいくつかのソ連映画で見たものとは別種の、不思議と簡潔さの魅力がある。そしてここぞとばかりに入る凄まじい横移動。涙なしに見れないブレントとヤニングスの別れ、列車のカットの凄まじい不意打ち。観客全員ヤニングスと同じ表情になった気が。