勉強やDVDなど。

 

ヘレン・シャルフベック展へ。『扉』と晩年の静物画が、どちらも見ていて暗くなる。

 

夜、知人友人の集まる白岩義行・木下亮上映会へ。(呼ばれていたかと思っていた人に声がかかってなかったことを知り、申し訳なくなる)。

木下さんの映画で主演だった白岩さんは、イメージフォーラム在学中に監督・主演を兼ねた8ミリ作品を上映。『なしくずしのしゅうまつ』は、うまくいかなかった課題の短編映画(3分間)と、その映像について語る言葉とのズレが織り成す、6分間の作品。ほぼ常に白岩さんが画面に登場していることと、その周囲を行き交う犬がよかった。『まぼろし』はカテリーナ・ゴルベワの映画を見る白岩さん、そのまま夏の町をさまよう白岩さんの主観と思われる映像とが重なり合う。

フィルムに音がのせられなかったため、映写機にかけられた映像とは別に、プロジェクターから音声トラックを流して上映していた(ほとんどいつも音声トラックが別に上映されているらしい)。その形態も影響しているのかもしれないが、映像とそれを語る白岩さんの音声との緩い関係が味になっている。

『まぼろし』の謎の人物の奇妙な歩行に対して、白岩さんは「こちらの視線を意識しているようだ」と言う。思わず笑ってしまいそうになる。白岩さんの見ていた電車が消える。暗転して、その消えた電車の窓からの主観につながる。白岩さんはストレートに戸惑いを語る。なんだか幽霊列車に連れ去らわれてしまったような恐怖を覚える可能性がある。しかし白岩さんは笑いも恐怖も語らない。その時、おそらく白岩さんが狙いを定める必要もなく、最も映像と言葉の距離が生じていて、作品に「余白」が残されていると言えるのかもしれない。

木下亮さんも、その白岩さんの「余白」に惹かれたかのように、音が映像を裏切る、嘘をつくことに、より狙いを定めた映画をつくったと思う。