五十嵐耕平『息を殺して』は設定から黒沢清大いなる幻影』『トウキョウソナタ』を連想させるが、工場という舞台と幽霊/人間、サバイバルゲーム、テレビゲーム、年末年始、2017年という設定や装置(フレーム)に囲われているなかで役者や犬が与えられている自由度という点で、諏訪敦彦筒井武文鈴木卓爾といった作家以後の映画かもしれない(造形大だからわかりやすすぎる結びつけだが)。いざゲームやダンスが始まったときに、先にあげた作家ほどの不意打ちがなく、しかしその淀みない感じもまた確信犯的に見える。

この映画のいくつかのロングショットで交わされる会話の音の処理は、距離感をむしろ不自然に失わせる。黒沢清の映画でしばしば見られる窓越しの会話に近いが、ここでは室内から視点は出ない。
ゲームを終えた後に人間たちは霊を見ることができるようになったとわかるが、それはすでに彼らが人間から霊の側へ移行しているのかもしれない。霊/人間というフレーム、サバイバルゲームやテレビゲームの境界には、役者たちが意識的にまたげるものとは異なる、いかにも黒沢清的な曖昧さが漂う(これまたわかりやすすぎることを書いている気がする)。

装置やフレームの存在を見る側に意識させることでもたらされるかもしれない自由さは、その境界線の曖昧さによって、奪われるとまではいかないが、どこまでも飛躍のない、ある地平にとどまり続けようとしているように思う。このキワどさにはほとんど嫌味な、何か嫉妬したくなるものがある。