『ウィリーが凱旋するとき』

ウィリーは町で一番初めに出願したはずなのに、戦地へ行けないまま故郷の基地で教官として過ごす、実家暮らしの日々。これが彼女と過ごす最後の晩かもしれないという調子で「人生には数分しかない」なんて涙なしには見れない会話もしたのに。それでもあの告白が泣かせるものであった事実は少しも揺るがない。これから始まるウィリーの困難な日々の始まりにふさわしい出来事なんだとも簡単に信じられる。
どれほど『ヨーク軍曹』を意識したのかわからない。なかなか故郷から出られないままのウィリーが感じているかどうかともかく、戦地のヨーロッパという「よそ」に向かうことなく故郷という「ここ」で過ごす日々もまた「戦争」そのものを感じさせる。まだちっちゃなウィリーの消えた家も、善行章のついた軍服でウィリーが過ごす家庭も「同じ毎日の繰り返し」でありながら紛れもなく戦地と地続きにある光景なのだろうし、その「戦争」は第二次世界大戦に限らない。夫婦と息子の揃った『リオ・グランデの砦』のような、またはリタ・アゼヴェド・ゴメス『ポルトガルの女』の戦地にいる夫を待つ妻のことも思い出す。馬はいないが足元には犬がやってくる。
フォードを「『待ちポジ』の名手」という堀禎一監督の『憐』のクラスと同じく、何が消えようと、突然現れようと、戦場と学校と家庭の日々は同じことの繰り返しであろうとする。そのフレームは揺るがないがゆえに恐ろしい。『ウィリー』冒頭の記念撮影で父親の登場が構図を乱すことになるかもしれなくても、結局は「あなたの登場を待ってました」という「待ちポジ」になってしまったようにも思えるし、その展開がなかったら味気なくて仕方ないのだから「待ちポジ」は恐ろしい。
にしても「教官」になった彼の見たものはビックリするほど映像になってない気がする。あの不時着だけしか見せないのが無茶苦茶面白いけれど、それを「フレーム外」というものを想像させる演出なんて言っていいのかわからないほど、彼と教え子のエピソードなんかちっとも出てこない。誰かに置いてかれた(周りが消えていく)不安と滑稽さはあっても『長い灰色の線』のクリスマスみたいなこともない。たぶん『リバティ・バランスを射った男』や『シャイアン』のような、歴史を語る際にこぼれ落ちて消えてきた諸々についてと結び付けられるのかもしれないが「フォード論」を書けるほど見もせず安易に口走るのも恥ずかしい。
ともかく教官としての日々は映像にならず、まさかのフランスでの法螺話へと向かう。パリでは自転車が活躍する。さらに船出を見ながら手に汗握ったとしても、それでもフレームは揺らがない。人物は酒でやられてしまっても映画は揺らいでない。その信用できなさによってウィリーが生涯幽閉されるという悪夢の可能性は見終わった今も消えない。そして(もう一人の「待ちポジ」の名手による)『お茶漬けの味』みたいな、あまりにも遅すぎる見送りが(狐に化かされたような気分で)待っている。イヴリン・ヴァーデン演じるお母さんのことも忘れられない。

『遠い明日』(監督:神代辰巳)

三浦友和の実の父(金子信雄)は無実の罪で服役中。真犯人は彼の身元引受人である若山富三郎だった。そんな事件の解決まで、神代辰巳の映画だから真っ直ぐ進むことはない。『アフリカの光』や『ミスター・ミセス・ミス・ロンリー』の、同じ場所をグルグル回ってどこにもたどり着けないような印象は通じる(あまり好きではなく、見直す必要があると思うが)。ただこの二本以上に、冤罪事件が題材だから重苦しいかと思っていたら、どんどん愉快に、やがてたまらなく寂しくなってくるから驚く。
三つ数えろ』や『ロンググッドバイ』のような探偵映画の傑作に近いのかもしれないが、それ以上にやはり青春映画である。お願いだから「明日」なんか来ないで、この戯れを繰り返していてくれと、死を選ぶ若山富三郎に「かぶりつく」三浦友和のように切なくなってくる。宮下順子のウザさも、地井武男の無意味さも、憐れな金子信雄の醜さも、神山繁が君臨していることも、浜村淳が死んでいることも、各々の役割が容赦なく存在する。そんな世の中の仕組みに抗うのでも諦めるのでもない。その仕組みの陰謀論めいた怪しさが探偵映画らしくもあり、学園映画らしくもあり、何より各々が役割と戯れているようにしか見えず、大変愉快でおかしい。
何かが面白味もなく終わって、あの遠かった「明日」が来てしまう予感に満ちた「今日」を繰り返してる感覚が幸せなのだ。でも、そんな「うまくやっていけそう」がいつのまにか終わるのではなく、目の前で血を流しながら若山富三郎とともに倒れる。その残酷さは強烈だ。若山富三郎になぜだか『ビューティフルドリーマー』の温泉マークもよぎったが、彼は三浦友和にとっての役割をわかっているのかいないのかともかく、彼は彼自身の地獄を生きている。停滞してほしい時間、それは笑うしかない反復であって(エンドクレジットの三浦友和)、『鍵』の全く時間を意味しない針の形でしかない時計と同じだ。現実とも人生とも異なる映画にしかない時間だ(いしだあゆみのことはうまく言葉にできず)。

山形育弘脚本・七里圭監督&黒川幸則監督新作上映@キノコヤ

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山形には行けなかったが山形育弘脚本特集には遅れて行けた。どれも職探ししたりしなかったりでプラプラした時間を過ごす人々の話だが、特に『Unnamed Road』の、いま見ている世界と自分の望んでいる世界とのギャップがありながら、「こうあるしかないんだろうか」と曖昧に過ごす一見楽し気な時間が、観客としてはとにかく気持ちいい。
PFF以来の『川でギャー』(黒川幸則)は初見以上に感動した。「ワンピース」シリーズ番外編としてワンカット・固定という縛りの一本でありながら、一度にすべてを見聞きすることが不可能だと諦めさせる作品で、許されるなら続けて5回でも10回でも好きなだけ繰り返し見たくなる。それだけ役者たちの顔と声を隈なく見直したい。それはギャラリーでのエンドレスにループするモニターではなく、劇場の暗闇と大きさでこそ発揮される。
『Necktie』(七里圭)は一見すると七里圭作品で最も緩い、だからこそ(おそらく『眠り姫』以降)最も愛すべき一本。フラッシュバックと女二人のあれこれが展開される時の、いくらでも(たとえば『ツイン・ピークス the return』のように)膨張し続けそうな題材を、本当にどれほど時間をかけたのかわからないほど短く圧縮する七里監督の力技を堪能できる(その意味で本作も何度でも見直せる)。唐突な青空での特訓シーンがとても美しかった。それでいて喫茶店やバーのシーンはどこへ向かおうとしているのかわからない。山形育弘本人の顔が何度も映っては、なにか馬鹿にされているような気持ちになる。どのように味わえばいいかわからない……、このコメントしがたさこそ七里監督の持ち味なのかもしれない。

『共想』(監督:篠崎誠)

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渋谷某所にて篠崎誠監督『共想』。初見。
『死ね!死ね!シネマ』の、映画を不定形のものにしたい、そもそも映画には見返すたびに異なる姿になってしまう、形のないものであってほしいという欲望と、そうであっても一度見たら忘れられない傷跡が残る、確かな存在であってほしいという欲望。見る側としては、二つの欲望の間には忘却とショックがあるのだろう。絶対に忘れられないことがあったはずなのに、正確に覚えていないという体験(はたして自分は映画にそんな経験をしたことが本当にあるのか? 他人の文章から植え付けられた偽の記憶じゃないか)。
もしくは未知の存在との不意打ち。初めて見たはずなのに、何度も繰り返したことがあるような出会い。かと思えば、どうせまた同じようなものを見るかと勝手に想像していたら、そんな予想を平然と裏切る何かと遭遇する。
数多くの映画たちの記憶があったはずなのに、映画によって警告されてきた過去を繰り返してしまった、予期できたかもしれない事態を避けられなかった、そんな後悔の念がよぎり続ける。その念は『SHARING』を2バージョンに分裂させ、映画の全体像を見た人はこの世に一人もいないような気にさせる。それでもなぜだか見た人たちが「共有」できる、だれも見ていない映画が存在しているのかもしれない。
共有と分裂。上映後の監督自身による解説では『共想』に複数のバージョンができることはないという(しかし関連性のある短編が存在しているらしい)。それでも『共想』の同じ場所に並んでいるのに、同じ場所に生きているように見えない二人は、ひとつの定まった完成形に触れているという安心感を与えてくれない。捧げられるキアロスタミフーパーのように、なかなか気持ちは落ち着かない。この心のざわつきは『王国』(草野なつか)の台風を並べたくなる。
同じ時間・空間を共有しているはずなのに、それぞれ別のものを見ているような二人。同じショットの中にいるのに、異なる時間を生きているような映画の力。ある時点をめぐる記憶が、それぞれの人物によって変化してしまって、いまや異なる時空を生きるようになってしまう。2011年3月11日の震災に関して「被災地」にカメラを向けるかどうかという問題も年月の経過が宙づりにしてしまったかのように、千葉の台風被害の記憶も新しいからか、もはや「どこ」が被災地だったかが曖昧になっていくような「忘却」の恐怖さえ感じる。そもそも『共想』を見ている自分たちは、いまどこにいるのか。
もの凄く危なっかしいものを見ている不安さえある。迂闊に「共感」でもしたらアウトなんじゃないかというくらい危うい。インタビューシーンで語られる「3月11日」の経験を聞きながら、彼女の芝居にどれほど距離をもって見るべきなのかと不安になる。濱口竜介『親密さ』から『なみのおと』など東北を記録した作品の、ドキュメンタリーとフィクションの間をさまよわせる試みの一つとしての正面からの切り返しから、よりフィクションの(「芝居」というべきか)側へ傾いたようなシーン。映像の力を通して「共感」を呼ぶために使われてもおかしくないような、役者本人の経験がいくらかでも混入されているんじゃないかという、即興的な芝居。アルトーの『ヴァン・ゴッホ』を読むショットから、赤坂太輔氏によってジャック・ロジエと対比して語られる「自然さ」の作家としてのモーリス・ピアラの名前をすぐに連想していいのかはわからない。
ほとんど「悪しき」映像に傾きかけない力に触れつつ、映画とともに闘っているようだ。即興的な芝居の「自然さ」と、いくつもの作り込み(野球部の音声が断ち切れて外の人物がいきなり消滅してしまったような音響面での操作)。何らかの一線を引くように、映画は感傷的になることを避ける。演劇の道へ進むのか、生徒と教師の微妙に互いのリズムがズレ続ける、特に笑ってしまいたくなる先生の返し方には「自然さ」が、映画がどこへ向かうかわからない不安と同時にユーモアも貫かれている。
北野武の映画に出てくる、どこを見ているのかはっきりしない人々が、ときに画面の構図に収められてしまった印象から解かれて、どこへ向かっているのか(進めているのか)わからなくても歩き続けているようでもあった(歩く人を正面から捉えた映像)。または『悪魔のいけにえ』の覚めても覚めない悪夢のような現実の連続と近い、非常に「何を見た」のか共有することが困難な展開。ヒロインの身体表現をめぐるオーバーラップや、同一人物か謎めいた声が重なって『あなたはわたしじゃない』はじめ七里圭監督作品の身体と音声をめぐるスリリングな瞬間がよぎったりもした。
いろいろ名前を出してしまったが、それでも手袋をめぐる終盤のリアクション、あのホッとさせる、いろんな力みから解かれる瞬間に尽きる。これこそ本当の温かみじゃないか。

『乙姫二万年』(にいやなおゆき)

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シアター・イメージフォーラム(東京):9/14 15:45 Program A
スパイラルホール(東京):9/21 10:40 Program A
愛知芸術文化センター(名古屋):11/8 14:00 Program A

 

公式サイト

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開催中のイメージ・フォーラムフェスティバルにて、にいやなおゆき作『乙姫二万年』を見た(次回はスパイラルホール(東京)にて21日 10:40から)。


下手なたとえだと思うが、にいやなおゆきさんという(ジョゼフ・コーネル的な)小箱の中身を外へぶちまけたら、とんでもないスケールの嵐になって世界が壊れてしまったような映画だ。8ミリアニメの代表作『納涼アニメ電球烏賊祭』での道端に捨てられた電球の中に広がる、ミニマルかつ壮大なイメージは健在だ。スクリーンが巨大であれはあるほど生きる映画であって、その一部始終を目で追える人間は存在しないだろうから、(どこか関連性のありそうな沖島勲『一万年、後....。』の遥か二倍の)二万年の時を超えて全人類が滅んでも宇宙に向けて電波となって上映され続けるに違いない。
生きているのか幽霊なのか人間なのかさえはっきりしないヘンテコな住民ばかりのアパートを舞台に、とんでもないことがサラッと日常の断片的なあれこれとして過ぎていき、夜になると毎日のように建物は津波に流され、そしていつの間にか訪れたクライマックスではこの世の終わりとしか思えない光景が繰り広げられる。アパートそのものが人間の頭部になる夢が出てきて、そこにはどんな想像でも許される宇宙の存在を感じる(楳図かずお『14歳』的な)。
物語のメインは、語り手の青年(声:加藤賢宗)のもとへ未来から巨大な牛乳瓶に入った全裸の乙姫(『スペース・バンパイア』のマチルダ・メイか!?)がやってきて同居するという話なのだろう。しかし唐突に段ボールの中からカブトムシが飛翔したり、猫屋敷と化したかと思えば(作家本人は望まない感想だろうが『黒木太郎の愛と冒険』を連想するのはこんなところか?)まさかの河童屋敷になったり、ゾウの「ハナコ」という本当に象なのかわからない気持ち悪い怪物を焼き殺すナンセンスなエピソードが挟まれたり(『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の『マクラスキー 14の拳』の火炎放射器と同じくらい笑える)、全く予想もつかない出来事が次々起きて飽きることは一秒もないが、まさに「夢のよう」というしかないとりとめもない展開のため物語らしい物語があると言っていいのかも怪しい。エピソードの合間に頻繁に挟まれる暗転のためか、騒々しいくらい様々な声が聞こえてくるのに、シーンによっては潔いくらい全く音がないためか、断片的な印象はさらに強まる。黒画面と無音、そして終盤になるにつれ画面を覆う白い光、無数の宇宙人が飛翔している空(『電球烏賊祭』の数えきれない量の烏賊たちが浮遊する闇の世界を思い出す)。清原惟の作品で馴染みのよだまりえの歌と旋律も聞こえてきて、『わたしたちの家』の別次元からの声のように、なんとも言葉にしがたいがひどく切ない感情までこみあげてくる。そして鑑賞中に客席から起こるだろう笑い声。映画館のスクリーンそのものの平面さ、奥行きの果てしなさ、映画館という場所の闇と音を改めて実感できる。
それでも紙芝居アニメーション『人喰山』(2009)の語り口もまた引き継がれ、36分を絶妙にまとめ過ぎることなく、散らかった荒野へ導くような叫びによって締めくくる。デジカメ動画をもとにつくられた日記映画『昨日・今日・明日記』(2012)のスタイルも合流して、ジョナス・メカスの名前を出すのは安易なら、高畑勲の『平成たぬき合戦ぽんぽこ』の狸暦が導入されているというか(個人の印象だが、志ん朝の語りと『人喰山』のにいやさんによる弁士が同じ声に聞こえてくる)、『となりの山田くん』の新聞の片隅に続けられた四コマから溢れ出したイメージの洪水に飲み込まれるような四季の記録を思い出していいのだろうか。このとんでもない断片たちがただの出鱈目な連想ではなく、その根底に貫かれた、昨今の自民党安倍政権の日本がそもそもどれほどイカれてしまっているか、このろくでもなさへの素直な怒りとなって反映されていることは見逃しても聞き逃してもならない。
にいやさんの筆跡によるキャラクターたちの見ていて心和らぐ愛らしさは、本作にどこへ連れていかれるかわからない不安よりも、この奇天烈な渦の中を漂い続けていたい気持ちにしてくれる。ゾウの「ハナコ」だけでなく、コラージュによる怪獣たちのグロテスクになるスレスレの面白可笑しさは実に愉快だ。精密な動きは犠牲にしてでも、こだわる箇所は徹底してこだわり抜いた手作りの世界であり、その細部には作家の偏愛するピープロの精神が継がれているに違いない。
それにしても本作の「2.5次元アニメーション」とは一体なんなのか。「片目で見ると3Dに見える」という作品解説は笑えるし、ただの茶目っ気、ハッタリかもしれない。それでもこの「2.5次元」というワードは本作を象徴しているように読める。アニメと呼ぶには収まりが悪いから「映画」と呼ぶしかない感じ。隣人が幽霊だったりロボットだったり平然と彼岸を跨いでしまう感じ。にいやなおゆきという作家が唯一無二の存在であることの証なのは間違いない。

『アスリート ~俺が彼に溺れた日々~』(監督:大江崇允)


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『美しい術』『適切な距離』の大江崇允監督最新作『アスリート ~俺が彼に溺れた日々~』を見る。これまでの長編二作と違って脚本にクレジットされていないが、それでも登場人物たちが各々の「美しい術」を探り、互いの「適切な距離」とは何か測る、紛れもない作家の映画だった。画面内の登場人物たちが互いの距離を意識してしまうように、大江監督もまた映画に対して知ったような顔はできない。あくまで「半分の世界しか知らなかった」という(阪本順治『半世界』が一瞬よぎる)ジョーナカムラの台詞のように、未知なる半分の世界として「映画」を演出する。そんな距離感があるからこそ、本当は同じ水槽に入ることのなかったかもしれない男二人の「愛」を、きっと多くの人がスンナリと受け入れられるような、扉の開かれた映画に演出できたのかもしれない。
それでいて何もかも淀みなく過ぎていくような、洗練された映画ではない。
登場人物の心象に合わせて変化するような画面の色なんか(虹色かランブルフィッシュヒレのような影)コントラストが強過ぎて駄目なんじゃないかとか、ひょっとしてわかりやすすぎて「ベタ」なんじゃないかと見るのが不安になって避けてしまいそうであっても、あえて実践する。
ジョーナカムラが二匹のランブルフィッシュを一緒の水槽へ移すことを試み、やはり本当に傷つけあうのを見て戻し、この魚たちの「傷」に、やはり「二人は同じ水槽にいれない」と自らを重ね合わせたように泣くシーン。これは(動物愛護的に)アウトにされるかもしれないし、えげつない演出かもしれない。それでもこの危うさは、最も忘れがたい瞬間の一つである。
これらの不安や危うさは「映画とは?」という問いの連続というとカッコ良さげだが、大半の人が相手のことなんか本当のところわからないけれど、どうにかこうにか付き合うしかないような試行錯誤が、映画に対しても問われているのだろう。その実直な付き合いに感動する。
いや、そもそも「映画とは?」という疑いだから、問いかける相手だった「映画」なんか存在せず、ここには(パンフレット掲載の監督インタビューで言われる)水槽とチャットルームという「フレーム」があるだけで、その中を人物たちが息は長く続かないと知りながら生きている。『雨に唄えば』の抜粋だって本当にふさわしいのか、居心地の悪さも覚える。
それでも作中終盤の台詞から引っぱるなら「映画は私たちのことを何でも見透かしているようで驚くけれど、私たちは映画のことを何も知らなかった」と、見終わってから思わずつぶやきたくなるような、まるで雨上がりの晴空の下にいるような気持ちになる。雨はまだ降り止んでいなかったとしても。

25日

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『マスターズ・オブ・ホラー』(何度目? ややこしい)。ジョー・ダンテ編『ミラリ』は悪ノリの作品たちに挟まれると恐ろしく地味だが、見返したくなるのもやっぱこれだけ。リチャード・チェンバレンが狂気の整形外科医!と言われても『ドクター・キルデア』とか見たことないからなーと相変わらず置いてきぼり喰らわされる。
ヒロインが整形手術の合間に見る夢の中では、リチャード・チェンバレン医師が両脇の看護婦と三人並んで首を傾けニッコリ微笑みながら手を振っている。すごくアホらしいことをやらされているはずなのに、もはや笑うべきなのかわからない。彼女にとっての覚めない悪夢は、病院の廊下へ抜け出たとき本格的に始まるのだが、ここで相も変わらず画が傾ていることに、呆れるなんてことなく「そうするしかないんだ」と感動してしまうのは何故か。
いまさっき『マチネー』を見返して、我が国でも「Jアラート」で虚しく繰り返した姿勢を生徒たちが学校の廊下で強いられる時に、「こんなことしたって原爆から身を守れるわけがない!」と抵抗して連れていかれる少女がいて、それを頭を抱えた姿勢のまま少年が見ている時、カメラは傾いている。映画の恐怖と、現実に虚しく騙されることを選んできた光景と、そこでの不安と抵抗の見事な接続(ジョン・グッドマン演じるキャッスルもどきの監督が少年に語る、恐怖映画を見る解放感とも結びつく)。
自分以外は嘘つきと管理人ばかりの世界で廊下をさまよう悪夢。このオムニバスでもミック・ギャリスとデビッド・スレイドが陳腐に繰り返していることを(スレイドのは本当に酷いがギャリスの最後の女の子はちょっと良い)、ジョー・ダンテはカメラの傾きとともに語り続けていた。常連ベリンダ・バラスキーとクリーチャーの対面によって、ゲーッとなるしかないラストへ向かってハジける。