16日

 

ラピュタ阿佐ヶ谷にて田中徳三『化け猫御用だ』、池広一夫『薔薇合戦』二本立て。「田中徳三の最高傑作」と聞いてきた『化け猫御用だ』は猫のイラストのタイトルに続いて、初っ端の招き猫の隣で楠トシ枝が歌うシーンから一気に引き込まれる。主役であるはずの梅若正二はあまり目立たず、思った以上に正直よく知らない中田ダイマル・ラケットが結構話を引っ張るのに驚くが、山城新伍よりも前に「ハッ、ハヒーッ」が聞けてギャグの伝統を感じた。辻褄の合わない無茶苦茶な映画になりそうで、道を見失う不安は一切感じさせない。それをただ演出の手堅さとか安定感という一言でまとめると、やっぱり本作を占める「無茶苦茶さ」「自由さ」の魅力を伝えられなくなってしまう。

続けて見たせいか、『聖天峠』の幻想シーンに見えて仕方ない写真のカットがなかったからか、『薔薇合戦』の瞳バチバチとか早送りとか一人二役とか、ちょっと遊びの入れ方がわざとらしく、おとなしく感じる。それでも充分、愉快な映画なのだが。市川雷蔵のゲスト出演は『薔薇合戦』のほうが主役男女を引き立てていて、なかなかキュンと来る。

『ホットギミック ガール・ミーツ・ボーイ』二回目行ってしまう。やはりこの監督の映画で初めて素直に感動しているんだと思う……。中学生らしき男子三人組が見に来ていることに、なんだか納得してしまった。

毒を抜く必要を感じて宮崎大祐『TOURISM』。予想通り心地よく毒抜きの時間に浸る。と言っても、ややカメラ酔いしかける。インタビューシーンはじめ、ところどころシュリンゲンズィーフの『ボトロップの120日』と『フリークスター3000』の、もはや映画なんて呼ばれなくて結構という側へ傾ていきそうな予感がして面白かった。それでも別に迷うことなく、絶対的に映像ではなく当たり前のように「映画」の側に踏みとどまる。草野なつか『王国』と堀禎一『夏の娘たち』と、どれも渡邉壽岳さんが撮影しているのは、やはり驚く。

夜。『チャイルド・プレイ』のリメイクには別に何の期待もないがトム・ホランド監督の『ドール・メーカー』(原題に近づけるなら『グーチョキパー殺人事件』)をついでに。絶対に疲れると思ったが、むちゃくちゃに面白い。もしかすると、これが今年一番面白い映画かもしれない。少なくとも新しい『ハロウィン』の1000倍近くは面白い。ある意味では『ハウス・ジャック・ビルド』と同じ話であり、そうでなくても新味のない題材なのは承知であり、終盤には余計かもしれないどんでん返しさえ用意されている。なのに映画は美しいというしかないほどの風格を漂わせている。曖昧なあれこれが積み重なって、あの逆転も、もう一人のあいつも姿を見せる。その跳躍にも、ドッキリするような音楽にも、この映画はあえて驚きなど与えない。ただひたすらテンポよく気持ちいい。後味悪くなりそうな結末であってもラストカットは痺れる。そしてエンドクレジット後のオマケは謎だがビックリするほどハッピーだ。

12日

デヴィッド・ロウリーの『さらば愛しきアウトロー』を早速見る。『ピートと秘密の友達』のドラゴンや『ア・ゴースト・ストーリー』の幽霊たちに続き、ロバート・レッドフォードたちの銀行強盗も人知れず消えていくかもしれない存在だった。クライマックスになるかもと期待したヤマはあっさり、刑事の寝ている間に済んでしまっている。だからといってレッドフォードの犯行は省略されるどころか、一部始終が演出される。それでいて現場にいた大半の人物は事件を見ることができず、彼の手元だってはっきり見えないことがある。つい、何かあると別の映画を中川信夫と結びつけたくなる悪い癖があるが、これこそ中川信夫サイレント映画の批評家であったように、デヴィッド・ロウリーは誰もが見逃してしまう銀行ギャングによって過去の映画たちを批評している。レッドフォードをめぐる回想シーンも、そのエピソードが語られ、メモされ、読まれ、そして映されるときに初めて出来上がる夢のような気がする。彼をめぐる栄光とは、このように日が射すことによって初めて形になるのかもしれないし、もう一度語られることがなければ、そのまま存在さえしなかったかもしれない。画面の質感は、いつの時代を生きているかわからなくさせる。
そして96分をタイトに語りきるのではなく、どこか贅沢とも、弛緩しているともいえる時間が数々の会話や音楽とともに流れ続けている。『ア・ゴースト・ストーリー』の延長にあるともいえるし、ケイシー・アフレックの「優秀ではない」刑事が緊張感を奪っているのかもしれないし、そもそもシシー・スペイセクと初めて出会ったレッドフォードの車を修理できるようで出来ない(この点『運び屋』だけでなく『ハウス・ジャック・ビルト』とも比べたくなる)あたり、スマートさとだらしなさが共存している。エンドクレジットの徐々に消えていく名前たちのように、ある意味しぶとく終わろうとしないような時間が流れていて、これまでの映画たちを振り返るまでもなく非常に新しい。彼の伝説は映画が見せられない最期の時へ向かって終わることなく、あと四回かそのくらいだけ続くらしい。レッドフォードはドラゴンと同じく風のように、すり抜けていく。

 

14日

自宅にてウェス・クレイヴン『怪人スワンプ・シング 影のヒーロー』。終盤「離れていても心は通じ合う」といった、ウェス・クレイヴンのテーマを凝縮した一言が聞けて、とても感動する。にしても『壁の中に誰かいる』の10年前、すでにレイ・ワイズが出てきていて、この『ツイン・ピークス』との縁は何かあるんだろうか。

9日

今日も休みだったが映画館には行かず。

検索していたらラオール・ウォルシュ『GLORY ALLEY』見つける。レスリー・キャロンが『巴里のアメリカ人』の翌年に予想外のセクシーな役をやっている……というゲスな欲望が当然のように清々しくどうでもよくなる。ラルフ・ミーカー演じるボクサー、ソックス・バルバロッサがリングに返り咲くまでの数年間。序盤は傷のトラウマ、アル中描写もあるけれど、たとえば清水宏の『簪』などで見たような、傷が癒えるまでの寄り道の時期、酒場を舞台にバカンス映画的な時間が流れているといったら、さすがに間違いなんだろうけれど、見えない眼が回復し、電話の修理業者がやってきて、終わらないかもしれない休みがようやく明けたようで、主要人物の集ったラストカットを見ると、この場所はまだまだ続くのだろう。その曖昧さは近作だと黒川幸則監督『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』に似ているかもしれない。列車を見送るレスリー・キャロンはやはり可憐な存在だった。

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8日

せっかくの休みだし、久々にTOHOシネマズで映画を見ようと思ったが、見たいと思う映画が一本もない。どの予告編を見ても行こうという気がしない。

それでも『ホットギミック ガール・ミーツ・ボーイ』の二回目に行こうか悩んだが、結局行かなかった。真正面の一番見易い席から、もう一度見たら本気で中毒になりそうだが、これを誰かに良い映画だと言う気もわかない。男たちと演じ損ねたラブシーンをやり直しているような、妹とのカラオケはもう一度見たいけれど。この作家の映画では、ヒロインが歌いそうで歌わない印象がある。歌ではなく「踊り」があったのかもしれないが、それもたぶん『溺れるナイフ』でやめている。このあたりに非常にひっかかるところがあるのだが、うまく言葉にできず。

DVDにてフィル・カールソン『ベン』。次作『ウォーキングトール』は主役の顔がほぼ同じタイプで、この両目のちょっと離れた、幼さの抜けない顔つきに惹かれていたんだろうか。周囲で起きる暴力沙汰の渦中にいるからこそ、あの顔が中心にいるのか。彼の佇まいは風の吹く中、ネズミの隠れた箱を持ち歩き、その隣に警官がついていく時、ドキドキしつつも非常に愛しい光景になっている。フラー原作の『スキャンダル・シート』でも見た(それこそフラーの『クリムゾン・キモノ』など近い状況を見たことがあるような)野次馬たちというか、何を思っているのか読めないというより読む必要のない人々(顔たち)も初っ端から出てくる。少年は嘘をつく(嘘をつく主役も数本見たフィル・カールソンの共通点だ)。ここでの『月光』と刑事の電話がむちゃくちゃ良いけれど、そのときの少年の顔はワイズマン『少年裁判所』を見直したくなる。それを嘘と知った母のショックはさらに来るが。火炎放射器と水攻めに囲まれた姉弟といい、フーパーの映画のクライマックスのように見ていたけれど、最後の刑事たちのやり取り、ざらついた感じ、と言っていいのかわからないが、かなり良い。

続けてフィル・カールソン『荒馬サンダーホーフ』。ピューマ狩りの『荒原の死闘』のほうが好きだが(若者が猟銃を抱える姿は『ウォーキングトール』見舞いに来る息子に重ねられて泣かせる)、ここでは若者が先に死んで、その帽子を生き延びた老人が見下ろしている。また都会を知る人間が田舎に戻ってきた話であり、馬と人間、それぞれのカップルが元に戻る。そしてカップル同士がともに歩いて終わる。

『嵐電』(監督:鈴木卓爾)

今まで見た鈴木卓爾監督作品の中でも、たぶん最もモヤモヤする終わりなのに、ストレートに沁みる。電車にちょうどよく間に合うなんて感覚は、人間が人間である以上、滅多に感じられないのだろう(あがた森魚の音楽だって、なんだかズレて聞こえる)。「行違い駅」という標示を覚えているけれど、電車があるせいで、すれ違い、忘れ物をし、乗り過ごす。列車のホームをホームとして落ち着きなんかしない。登場人物の誰も気づかないかもしれないプラットホームの灯りに、そこをホームだと思っていれば幸せだったという、今回はある意味、悲劇にも見える。
京都に、出ていくべき場所であり、フレームに時間の停まったなにかが映り込むと意識する。列車に対しスクリーンであり映写機でありカメラだと例えたくなる。京都と列車と映画に抱く凡庸さが滲むほどに、遅れてきた、間に合わなかった自分達を意識する。鈴木卓爾監督の映画を見るたびに「若さ」を感じることはあっても「新しさ」とは感じない。彼ら彼女らを見守る、ここに映りこんでいたかもしれない人たちに、我が身を重ねる。別れを別れとして認識し、再会は夢のまた夢の死後かもしれないのに、ちょっとだけマシな現実の2度目3度目を映画に求める。
それにしても、長回しの驚きという点ならそうでもないのに、「地点」の安部聡子が出ているという理由だけでなく、京都かどうか関係なく、人物同士の出し入れ・バトンタッチが同じ演劇の舞台上で交わされているように見える。その出し入れを、生で見つめる人たちがいるような、そんな演出が臭いと感じるところもなくはないけれど、ゾンビたちの出てくる映画のシーンさえ、画の奥行がとてもおかしい。「OK」のシーンかわからないけれど、誰も成功なんか映画において求めてないかもしれない。ジャック・リヴェットの『我らの親父、ジャン・ルノワール』の「地球が回転しているようにカメラは回り続けています」という言葉から『ジョギング渡り鳥』がよぎる。映画での愛の告白は皆から見守られている方がうまくいくこともある。本当にそういうことなのかは、まだまだモヤモヤが残るけれど。

『しがさん、無事?』(作・演出 青山真治)

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透明になって常連しかいないバーに迷いこんだような不思議な気分で始まって、最後の挨拶まで感動して拍手せずにいられなかった。先日の文芸坐シネマテークアラン・レネきっかけにサシャ・ギトリを思い出していたけれど、最後に青山真治監督ふくめた役者たちの挨拶を見れたことに、とても感動した。

なんとなく毎晩でも小劇場のスケジュールが埋まっていそうな印象の下北沢で演劇を見るのは、実は初めてかもしれない。そのせいか本当は行くべきじゃない場所へ来てしまったんじゃないかと不安になったけれど、そんな下北沢という場所でしか見れないものを見る体験、下北沢での上演だからこそ出せるのかもしれない空気を、ちょうど映画を見るくらいの距離感で楽しめた。それでいて限られた舞台の広さ・近さが他人の部屋か庭にあがりこんだような適度な緊張もしたけれど、オーディション始まって(オタク的でも『監督ばんざい』でもない)名シーン再現とNGの数々が笑えて仕方ない(それでも、いないはずの鈴木清順ファスビンダーか『オリーブの林を抜けて』か勝手に連想)。青山真治監督のコメディを見るのも、たぶん初めてだと思う。途中までは幽霊が隠れていそうな扉の開閉といい(「取っ手がとーれーるー」なんてCMソングがよぎる)、笑えるのに、ちょっと恐い。目の前で横になる人を見ることの豊かさも味わった。

オーディション、「代役」、(たぶんモンテ・へルマンにも通じる)ベケット……、映画より演劇は気軽に行けないかもしれないし、ひょっとしたら今しか見れない何かを逃してしまうかもしれない恐さも感じるけれど(どことなくユルいのに全編見逃せない演出の塩梅を見た気がした)、それだって映画も「これ見逃がしたら次はいつだろう」と焦らされる。今日も明日もどこかで繰り広げられるかもしれない(内輪ウケに終わるかもしれない)奮闘を、「結果は後日」と言われてから永遠に来ないかもしれない連絡は待たずに「結果は後日」を繰り返す、映画の複製になり損ねたオーディションという芝居を、透明になって毎日見たい気分になるけれど、そんな余裕は誰にも許されないかもしれないから、今夜も自分が見たのとは微妙に違うオーディションと挨拶があるかもしれないと想像しながら見逃す。

『ここにはいない彼女』(作・演出:安川有果)

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『ミューズ』と通じる舞台でいながら「小説家の妻」だけでなく、小説家自身も作品それ自体の読者よりも、知名度や外見のほうが上回った状況に置かれている。劇中に登場する小説家だけでなくシナリオ講座の学生の作品さえ、登場人物たちの口から評価は語られるが、言葉はどれも具体的な作品の像へ結びつかない。劇中劇やフィクション内に登場する作家たち作品たちが抱える「どうしてそんなに評価されてるの?」「そもそもそんな才能ある作品ってどんなものなの?」と思わず観客のイメージが付いていけなくなる……、そんな壁が意図的に演出に組み込まれる。常に「ここにはいない」ものの話をあえてしているようなのだ。
作家と作品は別物とよく言うが、それでも作家の人生と作品をゴシップ的に、創作行為そのものを物語として結びつけたくなる。作家は創作過程において隣人の人生をヒントにしているかもしれない。若手作家は可愛い女性の方が評価されやすいのかもしれない。モデルになれる外見の女性は文章なんか書けないかもしれない。作家のイメージをめぐる安易さの壁がいたるところに立ちふさがる。
「小説家の妻になるモデル」という彼女は「今の私ってとってもバカっぽいでしょ」という。彼女にバカっぽさがあるとしたら、観客としては「イマドキ本当にそんなサクセスってあるの?」という嘘くささもセットだ。彼女を巻き込んで高校時代の日記から周辺人物ふくめた学生時代もよみがえって人生の見えてきそうで、それをあえて拒否する嘘くささ。まるで劇の作家本人があえて「若さゆえに人間を描けない」かのように振舞っているのだとも(安易に結び付けて)想像したくなる。
バカっぽさからモデルだけでなく登場人物は一人も逃れられない。一人残らず、なんだかバカっぽく見える時がある。誰かを評価したり、誰かに評価されたり、評価をめぐって競ったり、評価をめぐって恐れたり、どれもこれもバカっぽくなってしまうのは避けられないのかもしれないし、そこには誰かをバカっぽいとジャッジしたくなるこちらの歪んだ欲望もセットなんだろうが、本作に登場する「評価」の言葉はほぼほぼ紋切り型に徹する。紋切り型な評価の言葉たちと戯れながら、そもそも人が「ミューズ」に、「モデル」に仕立てられる基準が、そこから紋切り型ではない言葉を(「本音」のようなものを)引き出すのが困難な壁に囲まれている。過去の印象なんか確実かわからない。思い出はモデル以上に美化されているかもしれない。
それでも高校時代の絵のように、女性が見る女性の、同級生が見た高校生のままの彼女の絵のように、立ち返りたいイメージはある。それだって今の彼女が望んでいるだけで、自分が本来望んでいないイメージとは違うというだけかもしれない。女性同士のキスや抱擁だって、それは紋切り型のイメージかもしれない。そういちいち「かもしれない」ばっか書くことのほうがバカっぽいだろうが、とにもかくにもこのバカっぽい戯れとの戦いは「こんな若いのにOLの話を書けて」なんて言われる間はおそらく続く。