『しがさん、無事?』(作・演出 青山真治)

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透明になって常連しかいないバーに迷いこんだような不思議な気分で始まって、最後の挨拶まで感動して拍手せずにいられなかった。先日の文芸坐シネマテークアラン・レネきっかけにサシャ・ギトリを思い出していたけれど、最後に青山真治監督ふくめた役者たちの挨拶を見れたことに、とても感動した。

なんとなく毎晩でも小劇場のスケジュールが埋まっていそうな印象の下北沢で演劇を見るのは、実は初めてかもしれない。そのせいか本当は行くべきじゃない場所へ来てしまったんじゃないかと不安になったけれど、そんな下北沢という場所でしか見れないものを見る体験、下北沢での上演だからこそ出せるのかもしれない空気を、ちょうど映画を見るくらいの距離感で楽しめた。それでいて限られた舞台の広さ・近さが他人の部屋か庭にあがりこんだような適度な緊張もしたけれど、オーディション始まって(オタク的でも『監督ばんざい』でもない)名シーン再現とNGの数々が笑えて仕方ない(それでも、いないはずの鈴木清順ファスビンダーか『オリーブの林を抜けて』か勝手に連想)。青山真治監督のコメディを見るのも、たぶん初めてだと思う。途中までは幽霊が隠れていそうな扉の開閉といい(「取っ手がとーれーるー」なんてCMソングがよぎる)、笑えるのに、ちょっと恐い。目の前で横になる人を見ることの豊かさも味わった。

オーディション、「代役」、(たぶんモンテ・へルマンにも通じる)ベケット……、映画より演劇は気軽に行けないかもしれないし、ひょっとしたら今しか見れない何かを逃してしまうかもしれない恐さも感じるけれど(どことなくユルいのに全編見逃せない演出の塩梅を見た気がした)、それだって映画も「これ見逃がしたら次はいつだろう」と焦らされる。今日も明日もどこかで繰り広げられるかもしれない(内輪ウケに終わるかもしれない)奮闘を、「結果は後日」と言われてから永遠に来ないかもしれない連絡は待たずに「結果は後日」を繰り返す、映画の複製になり損ねたオーディションという芝居を、透明になって毎日見たい気分になるけれど、そんな余裕は誰にも許されないかもしれないから、今夜も自分が見たのとは微妙に違うオーディションと挨拶があるかもしれないと想像しながら見逃す。

『ここにはいない彼女』(作・演出:安川有果)

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『ミューズ』と通じる舞台でいながら「小説家の妻」だけでなく、小説家自身も作品それ自体の読者よりも、知名度や外見のほうが上回った状況に置かれている。劇中に登場する小説家だけでなくシナリオ講座の学生の作品さえ、登場人物たちの口から評価は語られるが、言葉はどれも具体的な作品の像へ結びつかない。劇中劇やフィクション内に登場する作家たち作品たちが抱える「どうしてそんなに評価されてるの?」「そもそもそんな才能ある作品ってどんなものなの?」と思わず観客のイメージが付いていけなくなる……、そんな壁が意図的に演出に組み込まれる。常に「ここにはいない」ものの話をあえてしているようなのだ。
作家と作品は別物とよく言うが、それでも作家の人生と作品をゴシップ的に、創作行為そのものを物語として結びつけたくなる。作家は創作過程において隣人の人生をヒントにしているかもしれない。若手作家は可愛い女性の方が評価されやすいのかもしれない。モデルになれる外見の女性は文章なんか書けないかもしれない。作家のイメージをめぐる安易さの壁がいたるところに立ちふさがる。
「小説家の妻になるモデル」という彼女は「今の私ってとってもバカっぽいでしょ」という。彼女にバカっぽさがあるとしたら、観客としては「イマドキ本当にそんなサクセスってあるの?」という嘘くささもセットだ。彼女を巻き込んで高校時代の日記から周辺人物ふくめた学生時代もよみがえって人生の見えてきそうで、それをあえて拒否する嘘くささ。まるで劇の作家本人があえて「若さゆえに人間を描けない」かのように振舞っているのだとも(安易に結び付けて)想像したくなる。
バカっぽさからモデルだけでなく登場人物は一人も逃れられない。一人残らず、なんだかバカっぽく見える時がある。誰かを評価したり、誰かに評価されたり、評価をめぐって競ったり、評価をめぐって恐れたり、どれもこれもバカっぽくなってしまうのは避けられないのかもしれないし、そこには誰かをバカっぽいとジャッジしたくなるこちらの歪んだ欲望もセットなんだろうが、本作に登場する「評価」の言葉はほぼほぼ紋切り型に徹する。紋切り型な評価の言葉たちと戯れながら、そもそも人が「ミューズ」に、「モデル」に仕立てられる基準が、そこから紋切り型ではない言葉を(「本音」のようなものを)引き出すのが困難な壁に囲まれている。過去の印象なんか確実かわからない。思い出はモデル以上に美化されているかもしれない。
それでも高校時代の絵のように、女性が見る女性の、同級生が見た高校生のままの彼女の絵のように、立ち返りたいイメージはある。それだって今の彼女が望んでいるだけで、自分が本来望んでいないイメージとは違うというだけかもしれない。女性同士のキスや抱擁だって、それは紋切り型のイメージかもしれない。そういちいち「かもしれない」ばっか書くことのほうがバカっぽいだろうが、とにもかくにもこのバカっぽい戯れとの戦いは「こんな若いのにOLの話を書けて」なんて言われる間はおそらく続く。

『ひかりの歌』

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第一章に『牯嶺街少年殺人事件(A Brighter Summer Day)』の「この世界は僕が照らしてみせる」という言葉(自転車に乗った後姿もエドワード・ヤンから切り離せないのだろう)、第二章のジョギングする女性の足、『緑の光線』の選ばなかった男達のことがどうしてもよぎる。ここまではやはり闇の中で泣く女性の映画という印象で、闇から照らそうとする光ほどしか(男性は)女性の輪郭を掴めない。第二章に緑の光が浮かんでも、それは彼女の輪郭をぼんやりと包みながら、むしろ彼女にとって逃れることを望んでいるネオンに見え、闇の中をもがくようにも、そこで声を上げ続けることを望んでいるようにも見える(というよりも彼女のことは見えなくなる)。
第三章になり、うどん屋とライブハウスから雪の小樽へ舞台が移って、女性を照らす光の映画としては色彩豊かにも見えて、特に笠島智が歌手として立つ時、夜明けの船上で風に吹かれる時、電車に乗って窓を見ながら口ずさむ時、どれも顔も声も違う。男性が修理中のカメラは光らない。終盤、彼女は光の中から現れる。厨房には男性がいて、並んでうどんを食べる相手は女性だ。
第四章は夫婦の話になるが、一見すると最も視界から闇を奪われたエピソードであって、同時に夫の松本勝が突然登場したように、次のカットから急に消えてしまうのではないかという妻の並木愛枝の不安も闇が少ないからこそよぎる(彼が店番をする書店に飾られた『PORTRAITS』の黒い肌が気になる)。ここでは二人が光に照らされる写真撮影以上に、運転中の夫婦に後部座席から影を見ることのできたシーンが充実する。「許してあげないほうが」という妻の台詞が、闇の中へ沈むこともできない男女にとって必要な影に思える。夫を演じる松本勝が『ひかりの歌』の他の男たちと何かが違うと強調されるわけではないが(第二章の「キモい」バイカー、ハグして別れる同僚、下ネタ交えて歌うミュージシャンが各々違うように)、それでも最初は刑務所から出てきた設定かと勘違いしたが(自動車事故でもあったのかと思った)、映画の女たちと並んで照らされ、闇をまとう存在になるとワケありな佇まいになるのか。

2018年新作ベスト

蝶の眠り』(チョン・ジェウン
犬ヶ島』(ウェス・アンダーソン
『草の葉』『それから』(ホン・サンス)※『川沿いのホテル』は見逃した。
『いかにしてフェルナンドはポルトガルを救ったか』(ウジェーヌ・グリーン
フィフティ・シェイズ・フリード』(ジェームズ・フォーリー
レディ・プレイヤー1』(スティーブン・スピルバーグ
15時17分、パリ行き』(クリント・イーストウッド
つかのまの愛人』(フィリップ・ガレル
『女と男の観覧車』 (ウディ・アレン)

蝶の眠り』序盤の女子マラソンとか、結構くだらないギャグから助走をつけていって一時間くらいしてからの、神社デートから涙が止まらなかった。キム・ジェウクがとにかく良かったのに比べて中山美穂はじめ他の役者に関しては誰が良かったとか言いにくいけれど、どの人も気にならなくなる。『マディソン郡の橋』みたいな別れも素晴らしかった。
ホン・サンスは『川沿いのホテル』を見逃したが、特にこの二本からどちらかは選べない(『正しい日 間違えた日』は2016年のTIFFで見たから何となく外してしまった)。『それから』の、これ以上登場人物の誰にとっても何も語る言葉は出て来ないという締めくくりが凄まじい。『草の葉』はまるで人生において最後に思い出せるいくつかはこんなことじゃないかという映画だった。
犬ヶ島』は(最近山下耕作を見ながら思ったことだが)単純な分け方かもしれないが、同時代の他の映画を積極的に取り込み続ける作家と、何らかの原点を求めるように映画を撮る作家がいるとして(本当に分けていいのか怪しい)『犬ヶ島』はホン・サンスやガレル(『つかの間の愛人』よりは『現像液』だが)と並んで後者の映画だと思う。『博奕打ち いのち札』のラストと共に悪夢から醒めるか、それとも見られなかった美しい夢想へ逃避するのか、どちらとも取れるような映画であって何か重なるように(勝手に)感じる。犬を毒殺できるならば次は人間を殺すのだという現実を予知する悪夢と、子どもたちが阻止する美しい夢想の合間を、神社で眠る犬に(やはり勝手に)感じる。単なる印象だが、ほぼ同じことを『15時17分、パリ行き』にも(やっぱり)感じる。少年時代に泣く。
フィフティ・シェイズ・フリード』は大半は集中できなかったが拳銃と誘拐事件からは何度か見返す必要ある。シリーズを締めくくる台詞が良かった。
ウジェーヌ・グリーンの『いかにしてフェルナンド~』は映画祭関連で見た新作の中では(ホン・サンス除いて)素直に面白かった一本。
『女と男の観覧車』見ながら「映画とは火遊び」という言葉が思い浮かんだ。

『奈落』(監督:高橋洋 脚本:郷淳子)

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少しだけ映画美学校映画祭。万田邦敏監督作は見逃す。

高橋洋監督『奈落』は演習だから映画美学校内で撮影されて当たり前だろうけれど、舞台上での場面転換のように背景のイントレが移動して、男がスタジオ内を歩いて彼の自室とされたベッドの空間へ進んだ後、幽霊の現れる展開に痺れる。溝口『雨月物語』を参照しているのだろうけれど、『狂気の海』や『霊的ボリシェヴィキ』と並んで(赤坂太輔氏の言う)「上演の映画」の探求の一つかもしれない。

『奈落』は「泣ける映画」の設定に挑戦している。2007年のSTUDIOVOICE378号にて「いま、真に泣ける映画とは何か?」というテーマでの高橋洋井土紀州両氏の対談から引用する。「サークの『悲しみは空の彼方に』なんかの絶対泣けるラストの設定があるじゃないですか。今までひた隠しにしてた自分の正体を吐露してしまうことを承知で駆けつける、みたいな。これは泣ける作劇ではあるんですけど、今それを設定だけ模倣して泣けるかって言うと、難しい。既成の物語枠の中で人物が動かされているだけ、という風になりかねない。人間から物語が立ち上がると同時に、その人間の行動に外側から襲いかかって来る物語がある、作劇というのは単に設定というだけではなく、そういううねりを作り出すことだと思いますね。」「うねりを作り出すこと」が演出家としての高橋洋の挑戦という解釈は安易かもしれないが、10年以上前の記事で最も印象深いフレーズだ。

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「あの世」をめぐって、恐怖する人々についての映画が『霊的ボリシェヴィキ』だとすれば、『奈落』は涙がキーになる。幽霊の登場が「泣かせる」として、なぜ泣けるのか。まるで映画での涙の機能について受講生の脚本を通して探求するきっかけになるような(それでいて涙も乾くような展開へ行き着く)興味深い一本だった。

「泣いているの?」、そう聞かれた時に本当に男は泣いていたのか、宙づりにされる。人前では涙を見せるように思えない男の佇まいが素晴らしくて、女二人と違って台詞を奪われたような(良くも悪くも後輩の女学生による「○○さんの時計だ」という台詞が幽霊の登場をわざとらしく告げる)、吸わない煙草を咥えた彼の感情の読めなさが何より良かった。幽霊以上に、彼への演出に賭けられた映画かもしれない。涙を画面にはっきり映すより得られる効果があって、幽霊との会話へストレートに感動しつつ、一つの解釈を許さない。

「死ぬ価値のある人間になりたい」、死んでからも誰かの記憶に残り続け惜しまれる人物になりたいと話してから本当にこの世を去ってしまった元恋人の霊が姿を現す。彼女からの成人祝いの目覚まし時計は、私のことを思い出してくれるために毎日見るモノとしてプレゼントされた。いかにも男は彼女を失ってから停まった時間を生きているようだが、いざ目覚まし時計をベッドへ向ける時、彼女の願いと男の行動は決定的にすれ違ったようにも見える。おそらく「奈落」というタイトル通り、死んでしまった彼女の向かう先は闇だ。時計のラストショットが『霊的ボリシェヴィキ』の眼と呼応する。「死ぬ価値」とは何だったのか。

水下暢也『忘失について』

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水下暢也『忘失について』を買って、自分にはこんなに読めない漢字、意味を知らない単語が多いのかと驚く(大変失礼ながら作者の名前さえ最初は読めなかった)。現代詩手帖朝日新聞に掲載された作品を読もうとした時も漢字にぶつかった。それでも『忘失について』は別に読みにくくない。帯に書いてある言葉に読めない漢字は何一つない。そもそも読めない漢字、知らない言葉も躓くなら辞書を引けばいいんだろう。文字が頭の中で画になって浮かぶのを漢字が阻むのではない。むしろ「頭の中に思い浮かぶことさえできない画」、僕の貧しい体験がまだイメージできない「不可視」、あの映画や絵画を見る度に感じる「驚き」「不意打ち」を喰らうために、漢字が登場し、道を指し示す。それともタイトルにあるように、まだ見ぬではなく、忘れてしまったこともしれない。二度目三度目に見た映画の覚えていなかったカットに驚くことに近いのだろうか。

『狙撃者の灰色』というタイトルに惹かれて読んだ、やはりこれも3ページしかない短い作品であっても緊張感ある場面、家に入り込んだ誰かと、家にいた誰かとの出会いが、最後には不安とユーモアの入り混じった少年のアクションによって締めくくられる。映画で見たような緊張、アクション、サスペンスの1カット先の不意打ちとして、非凡な傑作でしか味わえないような時が待っている。

『草の葉』(ホン・サンス)

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フィルメックスに間に合いホン・サンス『草の葉』だけとりあえず。終盤のキム・ミニによるモノローグを聞くと、このカフェにいて盗み聞き(見)た人々の会話の数々が、わりと本気でプルーストの社交生活への視線と通じるんじゃないかと思った(まともに読んでないくせにかっこつけたいだけだが)。またはベルンハルトの、たとえば『私がもらった文学賞』や、クリスチャン・ルパ演出の舞台になった『伐採』のディスっているレベルの辛辣さをもって描写される作家たちが段落の変わった途端に愛すべき(ということでいい?)記憶と化すのに近いんだろうか。カフェの裏側でコスプレして記念とも言い難い撮影を繰り返すカップル、そもそもそんな背景の壁となるカフェ、何となく原宿のようだった。盗み聞きできるくらいの声の大きさ、アップルのノートパソコン、すべてが「スノッブ」なのかもしれない。しかし誰もいない静止画になってから、まるで貴族の時代の終わりでも語った映画のように、時間が一気に飛んだように感じる(それからの短い時間が感動的なんだけれど、とりあえず省く)。

まともにプルーストを読んでいないくせに、短いというだけでジョゼフ・チャプスキ『収容所のプルースト』は先に読んでしまった。『収容所のプルースト』にて語られる『失われた時を求めて』の描かれる、いくつもの「むなしさ」。自らの余命を知ってしまったスワンが、しかしそれを告白しようとした公爵とその夫人からは晩餐会の時間が迫っているのを理由に「ご冗談でしょう?」「大丈夫、元気そうだ」としか返せず、その場を夫妻は去ってしまうが、移動中に妻の靴が服の色と合わないことに気づけば、15分間遅刻してでも靴を替える方を選ぶ。「社交生活のむなしさ」。その「むなしさ」が社交生活とほど遠い収容所にて語られる。たかがブログだからこのくらいで安直に自分の中で結びつけてしまうけれど、ホン・サンスの映画が短編集のように編み込むやり取りも、いずれ誰かの死と近づく時に語られるかもしれない(Twitterの感想を読むとみんな本作と次作『川沿いのホテル』から強い死の匂いを嗅ぎ取っている)。

また訳者解説(岩津航)にて触れられる「収容所へ持って行く一冊を選ぶとしたら」という問いが喚起する「無人島に持って行く一冊」とは別種の胸騒ぎ。引用すると「あるいはその問い自体が無効になるかもしれない。政治的な理由で収容所送りになった場合、どんな本でも読めるわけではないからだ。さらに言えば、たった一冊の本さえ許されないかもしれない。ではどんな書物にも触れることができないとき、人は自分を支えてくれる言葉を失ってしまうのだろうか。そんなことはない。それまでに読んだ本の記憶のすべてが支えてくれるはずだ。問題は、その記憶をたどり、現在と結びつけ、あるいは現在と切り離しながら、収容所のなかで生きた言葉につくりかえていくことにある。」「プルーストの文学にはスノッブな匂いがつきまとう。定職に就くこともなく小説を書こうとして一生を過ごしたブルジョワ男性の物語であり、しかも社交界や恋愛が主題である。こんな小説を収容所で思い出したとしても、せいぜい安逸な日々へのノスタルジーをかきたてるだけではないか、と思われるかもしれない。しかしチャプスキの講義は、そのようなものではなかった。むしろ、社交界の華やかな話題に終始していると思われがちなプルーストが、実際には誰よりも冷静に、そして孤独に現実を直視していたことを思い出す機会となったのである。」

はたしてホン・サンスを収容所にいながら思い出せないかもしれない。ただ『草の葉』を見ながら、もっと個人的な事情からだとしても、誰かが映画を見ることができなくなり手放さざるを得なくなった時が来て、彼らの記憶に残るのはこれだといういくつかに思えた。食器の立てる音が仏様を呼び出してしまったような影の使い方から、ひどく美しく人々の横顔を捉えた瞬間の数々へ、ほとんどあざといくらい平然と変わる。バカバカしいくらい誰の耳にも聞き覚えのある、もはや「BGM」と呼ばれるしかなさそうな「クラシック」たちは、会話の声と曖昧にぶつかり、やがて窓の向こう側の様々な物音や、他所から聞こえてくる歌へ替わっていて、また飲みの席においてさらに聞き覚えのある曲になって帰ってきて、むしろ煽ってきてくるくらいだ。この場にキム・ミニの切り返される顔はちょっとやり過ぎなんじゃないかと思ったけれど、弟にいきなりキレるところがおかしくてどうでもよくなる。