『草の葉』(ホン・サンス)

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フィルメックスに間に合いホン・サンス『草の葉』だけとりあえず。終盤のキム・ミニによるモノローグを聞くと、このカフェにいて盗み聞き(見)た人々の会話の数々が、わりと本気でプルーストの社交生活への視線と通じるんじゃないかと思った(まともに読んでないくせにかっこつけたいだけだが)。またはベルンハルトの、たとえば『私がもらった文学賞』や、クリスチャン・ルパ演出の舞台になった『伐採』のディスっているレベルの辛辣さをもって描写される作家たちが段落の変わった途端に愛すべき(ということでいい?)記憶と化すのに近いんだろうか。カフェの裏側でコスプレして記念とも言い難い撮影を繰り返すカップル、そもそもそんな背景の壁となるカフェ、何となく原宿のようだった。盗み聞きできるくらいの声の大きさ、アップルのノートパソコン、すべてが「スノッブ」なのかもしれない。しかし誰もいない静止画になってから、まるで貴族の時代の終わりでも語った映画のように、時間が一気に飛んだように感じる(それからの短い時間が感動的なんだけれど、とりあえず省く)。

まともにプルーストを読んでいないくせに、短いというだけでジョゼフ・チャプスキ『収容所のプルースト』は先に読んでしまった。『収容所のプルースト』にて語られる『失われた時を求めて』の描かれる、いくつもの「むなしさ」。自らの余命を知ってしまったスワンが、しかしそれを告白しようとした公爵とその夫人からは晩餐会の時間が迫っているのを理由に「ご冗談でしょう?」「大丈夫、元気そうだ」としか返せず、その場を夫妻は去ってしまうが、移動中に妻の靴が服の色と合わないことに気づけば、15分間遅刻してでも靴を替える方を選ぶ。「社交生活のむなしさ」。その「むなしさ」が社交生活とほど遠い収容所にて語られる。たかがブログだからこのくらいで安直に自分の中で結びつけてしまうけれど、ホン・サンスの映画が短編集のように編み込むやり取りも、いずれ誰かの死と近づく時に語られるかもしれない(Twitterの感想を読むとみんな本作と次作『川沿いのホテル』から強い死の匂いを嗅ぎ取っている)。

また訳者解説(岩津航)にて触れられる「収容所へ持って行く一冊を選ぶとしたら」という問いが喚起する「無人島に持って行く一冊」とは別種の胸騒ぎ。引用すると「あるいはその問い自体が無効になるかもしれない。政治的な理由で収容所送りになった場合、どんな本でも読めるわけではないからだ。さらに言えば、たった一冊の本さえ許されないかもしれない。ではどんな書物にも触れることができないとき、人は自分を支えてくれる言葉を失ってしまうのだろうか。そんなことはない。それまでに読んだ本の記憶のすべてが支えてくれるはずだ。問題は、その記憶をたどり、現在と結びつけ、あるいは現在と切り離しながら、収容所のなかで生きた言葉につくりかえていくことにある。」「プルーストの文学にはスノッブな匂いがつきまとう。定職に就くこともなく小説を書こうとして一生を過ごしたブルジョワ男性の物語であり、しかも社交界や恋愛が主題である。こんな小説を収容所で思い出したとしても、せいぜい安逸な日々へのノスタルジーをかきたてるだけではないか、と思われるかもしれない。しかしチャプスキの講義は、そのようなものではなかった。むしろ、社交界の華やかな話題に終始していると思われがちなプルーストが、実際には誰よりも冷静に、そして孤独に現実を直視していたことを思い出す機会となったのである。」

はたしてホン・サンスを収容所にいながら思い出せないかもしれない。ただ『草の葉』を見ながら、もっと個人的な事情からだとしても、誰かが映画を見ることができなくなり手放さざるを得なくなった時が来て、彼らの記憶に残るのはこれだといういくつかに思えた。食器の立てる音が仏様を呼び出してしまったような影の使い方から、ひどく美しく人々の横顔を捉えた瞬間の数々へ、ほとんどあざといくらい平然と変わる。バカバカしいくらい誰の耳にも聞き覚えのある、もはや「BGM」と呼ばれるしかなさそうな「クラシック」たちは、会話の声と曖昧にぶつかり、やがて窓の向こう側の様々な物音や、他所から聞こえてくる歌へ替わっていて、また飲みの席においてさらに聞き覚えのある曲になって帰ってきて、むしろ煽ってきてくるくらいだ。この場にキム・ミニの切り返される顔はちょっとやり過ぎなんじゃないかと思ったけれど、弟にいきなりキレるところがおかしくてどうでもよくなる。



『憐 Ren』

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中央評論 270

 

 

『憐』を見直して、「中央評論」270号「特集:日本映画」掲載、堀禎一小津安二郎監督の『技術』入門編」に「待ちポジ」の話が出てきたことを思い出した。

 

そして小津監督がことあるごとに好きな映画監督として挙げる名前にジョン・フォード監督がある。 (略) フォード監督と小津監督が好んで描く共通した題材に「報われることのない恋愛」というテーマがある。『秋刀魚の味』で岩下志麻が結婚したいくらい好きな相手は、ゴルフクラブを売りつけにくる兄の会社の後輩、「三浦」である。 (略) 『荒野の決闘』で女性教師が好きだったのはドク・ホリデーである。「恋愛」は「情熱」である。しかし両監督ともその「情熱」を無条件で良しとはしない。そして、「職人」であるふたりは共に「待ちポジ」(役者が画面にフレーム・インしてくる際、カメラを動かさず、そのままのポジションで「待っている」ところから付けられたと思われる呼称。通常はまずい技術として忌み嫌われる)と言われる「技術」の名手である。ふたりの「待ちポジ」は、それぞれの方法で、いわゆる「待ちポジ」ではないのだが、この話は長くなる。またの機会にしたいと思う。今はただふたりの映画の物語上のモチーフに重要な共通点があると指摘するにとどめる。

 

小津・フォードはどちらも「待ちポジ」の名手だけれど、「ふたりの『待ちポジ』は、それぞれの方法で、いわゆる『待ちポジ』ではない」と続いて、謎をかけられたような気分にもなる。結局「待ちポジ」の話の続きは読めず終いだったと思う(どこかに書かれているのを読んでないか忘れてしまっていたらごめんなさい)。「技術」とカッコに括っているのが、当然「入門編」の忘れてはいけない点だとは伝わる(それでも『妄想少女オタク系』の阿部みたく「それってどういうこと?」と千葉に聞いて「わかんねえだろうな」と返されて終わりかもしれないが)。

秋刀魚の味』の「報われない恋愛」の一つ、岩下志麻吉田輝雄の駅でのシーンについて書かれている。

 

「撮影する側」は「路子」と「三浦」が結ばれないことを知っている。だから東急池上線「石川台」という、今も現存する、少し「高台」にある駅で撮影されたであろう岩下志麻吉田輝雄のくだりは確かに何気ない言葉のやりとりがふたりの間でなされるだけの短いシーンだが、お互いに好意をもちあいながらも決して情熱的には結ばれることのない目線の関係が、厳しくも美しいリリシズムの原理にしたがって撮影されている。ふたりがホームに入ってきた電車にふと目をやる時、ふっとそれまでの緊張がほんのわずかに緩み、ふたりはもしかしたら将来結ばれるのではなかろうかと思うその時、そのシーンのラストカット、カメラはさらりとロングでふたりの背に入る。ふたりがホームに立つ背姿をとらえたロングショットに「電車」が入り込んでくる。その美しさ。「技術」である。しかもこのシーンの撮影は「撮影効率上」、間違いなく「順撮り」ではない。誰もが「うまい!」とうなると同時に、ああ、やっぱりふたりは結ばれないのだと思う瞬間である。小津監督の背姿のグループショットは厳しくも優しい。バック・ショット(人物の背姿をとらえるショット)のロングに万感が込められる。そしてホーム上でなされる会話。「野田=小津」コンビの脚本。 

 

「電車」が「技術」のようにカッコで括られて不意をつかれるけれど、「高台」と同じく、画面に映るイメージとして単に『秋刀魚の味』だけではなく映画にとって外してはならない要素の一つに間違いないということか、それとも、もしかするとこれまた謎をかけられたようで「おかしい」と感じるべきなのか。2分間しかない『天竜区水窪町 山道商店前』の会話から聞こえてきて、黒画面の後に、音声が消えた画面へ入り込んでくるのも「電車」とカッコで括るべきなのだろうかと、余計なことも連想して広がりのない脱線をしかけるが、ついでに「入門編」終盤も引用する。

 

正解なんてない。「技術」があるだけだ。「映画」があるだけだ。「表したい」ことがあるだけだ。そして、あたりまえだが、「技術」はその裏に隠された「気持ち」に、「想い」に裏づけられている。

 

『憐』は堀禎一監督にとっての(いわゆる「待ちポジ」ではない)「待ちポジ」という「技術」についての映画のひとつということでいいんだろうかと思いながら見た。

教室に誰かがいない。いないはずの誰かが教室にいる。

クラスメイトが休んでいても、休んでいるなりに盛り上がっている。そこへ平然と遅刻してクラスメイトが入ってきたら、「遅えよ」とか言われながらも、もう教室に溶け込んでいる(それとも、たとえば自分がいない間に、いつまで欠席してるかなんてトトカルチョは悪趣味だとキレずに笑ってみせる馬場徹の佇まいというかリアクションが特別素晴らしいということなのか)。

転校生がやってくれば、彼のためのように誰も座っていない席が用意されている。そしてクラスメイトのひとりは彼に一目惚れしてデートを申し込む。

さすがにクラスメイトの一人が家族に何の連絡もせず帰ってこない、登校もしてこない、となれば背景に「事件」を想像してしまう。それはクラスメイトの不在が、彼・彼女の戻ってくるための席はまだちゃんとあるということかもしれない。最悪なことが起こってしまってからも(むしろだからこそ)彼らは、明日も普段通りにしようね、という言葉を残して一人、また一人と帰っていく。

久しぶりに登校したら、見たことのないクラスメイトがいて、彼女の名前も顔も知らないのは自分だけだった。放課後、友人たちとのバスケ中に彼女の名前を出したら、誰も彼女のことを知らなかった。しかし彼女本人をその場へ連れてくれば「珍しいね」とか言われようと、バスケに交ぜてもらえる。

堀禎一監督の映画では告白が肝心の男女の間だけではなく、休み時間のクラスや、みんなの見ている前でおこなわれ、それを「勇気あるな」「大胆」とか「いまそんなことしている場合かよ」なんて言われながらも、冷やかすというよりは、まず一通り見守るといえばいいのか、これまたよくある言い方だけれど、映画とはそういうものだ、そんな隠れてやればいいことを人前でおこなうのを受け入れると言わんばかりに。たとえば人前でなく二人だけでの告白は、それを見守る人々がいないからか、より場違いというか、唐突というか、受け止めるポジションを見失ったもののように感じる。だからなのか、『妄想少女オタク系』の夜の駅でのキスは「わからない」ものでドキドキする(これはもう「待ちポジ」とほとんど関係ない)。

それとも誰かが窓から駐輪場を見ている主観ショットのような画に、自転車をひいた朝槻憐がフレーム・インしてくる、常に下校中の彼女を先回りしているようなカットのことこそ「待ちポジ」と言うべきなんだろうか。

 

はたして「待ちポジ」のことを、そんな妄想してお喋りすべきなんだろうか。たとえばジョン・フォード『幌馬車』のベン・ジョンソンハリー・ケリー・ジュニアがワード・ボンドたちへ合流する時、来ると思ってたよ、なんて交わすシーンは「待ちポジ」と呼んでいいのか。小津安二郎なら『麦秋』での原節子に対して「あんパン」の話を杉村春子がした時の、どこか待ってましたというか、駄目なら駄目で仕方ないけれどよかったよかったというか、収まるべきところへ収まっていくというか、そんな抽象的な話でいいんだろうか。やっぱり違うだろう。たとえば冒頭の一家が各々のリズムで朝食をとり、身支度を済ませ、外出するまでの居間や洗面所、鏡台のある部屋など様々なフレームへの出入りを繰り返すショットたちのほうが「待ちポジ」かもしれないし『憐』の休み時間の教室とも似通って見える。それとも単に「おまえにはまだわかんねえだろうな」って千葉君から返される話かもしれない。

 

影響を受けやすい、人の真似ばかりで恥ずべきかもしれないが、9月22日『天竜区』シリーズ上映後の葛生賢・岡田秀則トークにて「ジル・ドゥルーズの『アベセデール』」の話になったので、ようやく見始めたら「C」で「襞」の話が出てきたけれど、同時に「待ち伏せ」という言葉も出てきて「そういえば『待ちポジ』の名手という話があったな」と思い出した。

ドゥルーズの話によれば、もしも(うまい例えではないかもと言いつつ)「第二のベケット」というべき誰かがいたとして(プルースト失われた時を求めて』第一稿の出版が拒否されたことを揶揄して「我々はガリマール社の過ちを繰り返しません」というコピーの新聞広告を目にして呆れたという話を踏まえて)スカウト業者がヘッドハンディングできる存在ではない。あくまで今の段階では「いなくても困らない」のだ。絶対的に新しいものは、まだいなくても誰も困っていない。

大雑把にまとめれば「出会う」ために映画館に通って「待ち伏せ」しているというドゥルーズの姿勢と「待ちポジ」の話を繋げていいのか、全然違うよとツッコまれてお終いな気もする。

 

エンディングテーマの「食い逃げリーダー」(『ひき逃げファミリー』とか『万引き家族』とかよぎる)の『空色のミライ』が流れた途端(バンドと、そのファンには大変申し訳ないけれど)ズッコケそうになる猛烈な違和感にはいつも驚く。『妄想少女オタク系』のエンディングは、やっぱり曲そのものだけ聞いて好きになるか相当に怪しくても、映画の最後に流れてくると、それまでのあれこれ思い出して余韻に浸りながら、とても素晴らしく聞こえる。甲斐麻美が海辺に立って、こちらを見ているラストショットが本当に愛しいから大好きなエンディングだ。しかし『憐』のエンディングテーマは余韻をぶった切る。別にこれは堀禎一監督の与り知らぬところで用意された音楽かもしれない。それでも決して『妄想少女』は素晴らしくて『憐』の音楽は残念ということではない。むしろ『憐』のエンディングテーマが流れる瞬間は、映画の無意識に触れているんじゃないかという気さえする(そんなのよくあること、という点も否定しない)。ここには(貶めるつもりはないけれど)『寝ても覚めても』のtofubeatsにはない何かがある。方向性は全く違っても、虹釜太郎の音、『天竜区』シリーズの割れた時報の素晴らしさと、おそらくエンディングテーマと堀禎一監督の映画の間にある溝は通底している。映画と音楽の出会いに幸福も不幸もなく、それぞれが本来出会うことさえ唐突で違和感を覚えるべきなのだろうか(比べて『魔法少女を忘れない』の音楽は王道という印象はある。あくまで印象に過ぎないが)。

ついでに『夏の娘たち』に出てくるシーラ・Eやデヴィット・ボウイの名前が何だか納得させてくれない音楽と映画の間の溝は何なのか。特にボウイの音楽と映画を見る度に出くわして食傷気味になったことを思い出すと、この溝は痛快にさえ感じる。デヴィット・ボウイに似ているという「旅の人」とともに、どこか本来あるべき位置へ旅立たせてしまったかもしれない。音楽が割れたまま響く時報のように、もしかしたら「いなくても困らない」けれど存在してしまっているというような。


妄想少女オタク系』の四人組(に加えて先輩)がこのままずっと見ていたいくらい愛しくても、その他のクラスメイトたちが混じったカットに関しては、もしかするとまだまだやれることがあるという段階だったのかもしれない(授業中に男女二人が叱られて立たされてから微笑み目線を交わすロングなんか本当に大好きだけれど)。それくらい『憐』の休み時間のカットは誰がフレームに入ってきても、誰が出ていっても、どちらにしろ当たり前の変わらない光景を見ていたような気にさせるくらい、みんなの動きがさりげない。『魔法少女を忘れない』の、まだ誰が主人公かもわからないけれど、その後に活躍するかどうかもまだわからない人物たちが次々と登場するオープニングの授業は、丁寧に作り込まれていて、それでいてこれまたグイグイと映画の世界へ引き込まれる。

放課後に繰り返されるバスケをしながら交わされるやり取りなんか(一度だけ賭けの話になるが)パスやシュートがさりげなく決まりながら繰り返す会話はどうやったらあんなに平然とできるのか(単にみんなの運動神経がいいのだろうか)。『夏の娘たち』の本当に言い間違えたんじゃないかという会話が紛れても、ふたりは笑って話を続けるカットのことも思い出した。

鳴瀬(馬場徹)が憐(岡本玲)を初めて放課後の友人たちのバスケに参加させようとするシーンが素晴らしかった。それがどれほど彼らにとって切実か、映画を見ていない人に伝えられる自信がないけれど、(はたしてフォードの名前ばかり出して監督の掌の上を踊っているに過ぎないかもしれないけれど)『荒野の決闘』のダンスに誘うシーンに見える。憐の祖母(宮下順子)が若いカップルを見送る姿が、そんなあれこれ映画を思い出したなんて言っても陳腐で伝わらないだろうけれど、これまでの結婚を約束された男女の送り出される姿が強烈によぎって、自転車に乗ったカップルの男がすれ違う人々に挨拶を続ける姿は涙なしに見れない。そこへ切り返される、道路の向こう側にいた速水今日子の目線が「死」の予感と、カップルの姿を寄り添わせる(今見ると『イット・フォローズ』を思い出す)。

そして何度もよぎる「人殺し」。「皆殺し」が映画のカタルシスとして強く記憶に残ったことは何度もあるけれど、その解放感への誘惑と恐怖がつきまとう。川辺での男女の散歩が強烈に連想させる殺人(同時にこれは堀禎一監督にとって加藤泰『皆殺しの霊歌』に最も近い映画なのかもしれない)。岡本玲馬場徹にナイフを向けるシーンの、最初は見ていて芝居や展開に入り込めなくても、うずくまって地面に向かって声をあげる馬場徹を見ると、『妄想少女』での彼の台詞なら「マイナスからの反動」として、違和感が切実なものとして受け止めざるをえなくなる。堀禎一尾上史高コンビの映画は、初めの違和感に対する相手のリアクションが「この映画を見れてよかった」という気にさせる(知った風な書き方か)。

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『肌蹴る光線 ーあたらしい映画ー』vol.2

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『ものかたりのまえとあと』展 青柳菜摘/清原惟/三野新/村社祐太朗 | nobodymag

 

『肌蹴る光線 ーあたらしい映画ー』vol.2へ。

どちらも「少女たち」の映画かもしれないが『暁の石』の工員らしき男たちは(少なくとも『ひとつのバガテル』以降に見た作品から)消えた存在かもしれない。共同監督クレジットと関係あるかもしれないが、人物たちの佇まいは変わった。ただ音楽の趣味や催眠効果さえあるリズム、物語の行ったり来たりして先へ進めているかわからない停滞感などは引き継がれている。おそらく監督だけではなく複数の役割を(少なくともクレジット上は)負っている作家にとって、同時にユニットの存在は大きく、『暁の石』共同監督の飛田みちるとの「飯田春子」というユニット名や(『暁の石』は監督・脚本・撮影・編集:清原惟、監督・録音:飛田みちるとクレジットされる)、『わたしたちの家』ほか脚本の加藤法子といった名前は気になるし、一方で撮影をイラストレーター(『ひとつのバガテル』出演もする中島あかね)が担当した『網目をとおる、すんでいる』であったり、クレジットから製作スタイルが気になってくる。

『暁の石』の父親も感じ悪いかもしれないが、再見した『ひとつのバガテル』の間借りしている老婆と孫の感じ悪さは結構インパクトある。祖父江慎トークにて「感情を表に出さない芝居」への評価あったけれど例えば『網目をとおる、すんでいる』の女の子二人と『わたしたちの家』の感じ悪いマスターとか、どの作品でも何考えているかよくわからない菊沢将憲とは相当に違う。『わたしたちの家』の喫茶店のマスターも店の雰囲気に対して非常に嫌な感じの存在だったり、逆に母の再婚相手に対するヒロインの敵意は(少し笑えるくらい)大きい。感情を出さなくても伝わる相手、伝わらない相手の距離は大きい。

わたしたちの家』は別に「わたし」だけのものではない点が大きいけれど『ひとつのバガテル』のヒロインが最終的に住処を追い出されてどこへ向かうかは謎めいている。『暁の石』最後の電話は、かなり意味合い違うけれどウディ・アレンのオチがよぎるくらい、「この後どうするんだよ」とツッコミたくなるところもある。

 

『カメラを止めるな!』

ポプテピピック』が二度繰り返され、『わたしたちの家』が一つの家を舞台に二つの話を行き来する。廣瀬純スピルバーグ評をなぞれば、『レディ・プレイヤー1』はゲーム内部と外部とプレイヤーの話を二度繰り返す。『カメラを止めるな!』は確信犯的に三度始まる。一度目は長回しゾンビ映画、二度目は舞台裏を明かしての辻褄合わせ、三度目は上映が終わってから。

監督夫妻が出演を決めるまでも、撮影を中断されてしまうんじゃないかという危機も、解決までの時間を使わない。事態が動き始めたから止まらないというニュアンスとしてより、おそらく必要ないものとして葛藤する時間を切り捨てる。代わりに舞台裏と切り離されて、前半のゾンビ芝居に割かれた時間を、観客として見ながら記憶とともに繋ぎ合わせる。プロデューサーの「視聴者はそこまで見ない」に対する監督の「見てますよ!」といった返しは正しいかもしれない。「生放送」という割にオンエア時の視聴者の様子は一度も見せず、しかし退屈になったら画面を見ずに携帯をいじる制作陣が観客として映る。一回の映像に集中はしないが「見ている」姿勢(突き詰めると『季節の記憶(仮)』の激しい手ブレによって集中して見たら酔ってしまうから、聞こえてくる声と付き合う時間になる)と本作は通じるんだろうか。

夫・監督、妻・元女優、娘・助監督という家族構成や、アル中の役者まで(息子ではなく)娘の写真を見る、舞台裏におけるドラマの薄さを補うために家族を持ち出すという酷い事態に驚くけれど、ほとんど「クセモノ揃い」と言いつつ単なる情報と化した薄っぺらいキャラクターたちの関係性を語り合うために、第一幕と第二幕を脳内において繋ぎ合わせて広げる、上映後の第三幕が存在するかもしれない。Wikipediaの漫画やアニメの登場人物たちに割かれるページ数の多さは、作品のディテールを保障しているかもしれないが、「キャラクター」の細部をめぐる読者の楽しみに近い。そんな答え合わせや解釈のようにレビューを書く人はいるし(自分だってそんなものかもしれないが)みんなの心の中にある第三幕では一幕と二幕を繋ぎ合わせられる「よく出来た」細部の巧みさ(?)について語られ、ついでに現実の製作の舞台裏へ踏み込む話題が浮上してくる。

わたしたちの家』や『ゾンからのメッセージ』をいくら語っても細部は繋がりあうわけがないけれど、『カメラを止めるな!』は手足が飛んできた程度で納得させるくらいには脳内で繋がりあう。「どっちが学生映画だよ」と言われそうな『怪談 呪いの赤襦袢』がわざと放棄する繋がりのほうが、これまで感じてきた映画の力について考えるきっかけにはなるだろうし、『ミッション:インポッシブル フォールアウト』の破綻した展開へのこだわりのほうが「それでも観客は気にしない」という試行錯誤において映画を作る上で重要だと思う。

イムリミットに対する鈍感さなのか、姑息さなのかわからないが(その意味で「自主映画」としては松江哲明入江悠と比べても抜きん出て「生産性」がある)、それでも終盤クレジットの組体操だけ15秒とか時間を言わせるあたり、合間合間に「何かを見て笑っている人」の顔を挟む編集とともに「繋がり」「絆」の映画だと感じて腹立たしい。一致団結を組体操で表すのは最低最悪だ。ここまで何もかも口にすることを要請する映画と会って、どんだけ素晴らしい映画でもゴミのような映画でも「語られなかった」ことのあるほうがマシだ。

『怪談 呪いの赤襦袢』

記憶を失ったヒロイン浜崎真緒の夢見る女同士のSMから始まって、幽霊になった彼女と性転換した恋人(小坂ほたる)とのベッドシーンに至る。夫を名乗る男(野田博史)との行為は監視されていて、精神科医を名乗る女(加藤絵莉)が彼女の表情を分析、快感より苦痛を覚えているという。一方、夫と精神科医は裏で繋がっていて「男の喘ぎ声なんか聞きたくないから」と第四の壁を意識しながらセックスしている。ヒロインの「分間宮」というヘンテコな名字は「間宮」(黒沢清の『CURE』の記憶喪失の萩原聖人とか)の分家らしい。
なぜか抜け出せない空間、一人二役、二転三転する真相(?)。映画につきまとう雑さ、強引さが作劇に与える影響を、ある種の贅沢さが期待できない状況で二重三重に捻じれながら呼び込もうとする。野田博史が山城新伍のアレをやるのは『スウィートホーム』現場のエピソードが当然連想されるけれど、芸の継承なんてものじゃなくて、やはり無理があるんじゃないか、もはや悪ノリと何が違うんだとツッコまれかねない傷を残すと同時に、加藤絵莉が床の臭いをかぐ本気さと同じく記憶にも残る。小坂ほたるの声が男女の間を行き来して、登場人物たちの不安定な設定をさらに歪ませる。ただ確信犯的に破綻したどんでん返し(それこそ学生映画のノリかもしれない捻り)に引きずられて話が動くというより、赤襦袢を前にどうしたものか動けない『皆殺しの天使』的な置いてけぼりを喰らう。『ミッション:インポッシブル フォールアウト』の「アイム ウォーカー」も相当にブレていて最後はケロイドになるから浜崎真緒と通じているかもしれない。

『ゾンからのメッセージ』

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鈴木卓爾監督の映画の人物たちは、ある場所に集まっていて、その場所は喋り声や楽器や映写機か何かの機材の音やらが常に響いていて、廃墟のようで光が差し込んでいて、各々に目的や志の程度の差異や悩みがあったりして、何かの感覚や記憶を共有していて、そこから一歩を踏み出そうとしたり、逆に理由をつけて踏みとどまっていたりする、微妙な時期を過ごしている。
『楽隊のうさぎ』の吹奏楽部の否応なく過ぎ去っていく時間のなかで、どの程度の達成があったのか、あえて曖昧になっているのが良かった。『ゲゲゲの女房』が一応は実在する人物たちの話であっても、あの家に住む彼ら彼女らは現在の風景の延長に妖怪たちと映り込む存在であって、家に入れた人物のひとりは力尽きて砂となって散る。
『ジョギング渡り鳥』の撮影機材がどんどん映り込み、いつ終わるかもわからない、どこへ向かって飛び立てばいいのかわからない時間さえ、ひどく親密に思えて驚く。特殊さでいえば「ワンピース」シリーズの1カットの製作スタイルさえ、訓練のための制約という以上に、その1カットのフレームの中で何が乱入してきても消えても、どこまで動けるか、どんな時間を過ごせるかであって、しかもカットがかかってから彼ら彼女らがどうなったかは、たぶん誰も知らない。
また鈴木卓爾監督の映画では役者は人間というよりも、自分を大人だか子供だか決められないように、妖怪であったり宇宙人であったりスタッフと化していたり(『ゾンからのメッセージ』のある人物を指した台詞のように)境界線上を歩いている。自分が何をしたい人かわからないと同時に、何かやりたいと言っている。同時にフレームを出入りするのが役者だけでなく虫や猫もいて、特に『私は猫ストーカー』の、猫にカメラを向ける上での礼節が問われるのは素晴らしかった。


ゾンからのメッセージ』は2014年の映画美学校映画祭で見た時と画も音も編集も変わっているんだろうと思う。初見以上に、「インタビュー」が入ってくるまでは驚くくらいテンポよく物語られている気がする。演説する男へ向かってフレーム外からゾンビのように人々が出てくるカットがかっこいいし、そこから訓練中の人々を撮ったカメラの画に切り替わるのもいい。最初に『花の街』のコーラスが聞こえてくる空間へ入り込む時の高揚も、人物が何か話している最中に虫が割り込んでくるのも、「ワンピース」シリーズにて発揮されたフレームを使った出し入れが完全に映画にとっての武器になっている。
そして元バンドメンバーの二人が喧嘩に終わってしまったあたりから、映画の印象が変わるくらい停滞するけれど、そのことが決して退屈さを意味しない。たんに自分に想像力がないだけかもしれないが、やはりゾンから抜け出す仕組みがまるでわからない。どうして彼ら彼女らがゾンから抜け出せるようになったかもわからない。既にインタビューが「ゾン」から抜け出すまでもなく、外部を見つけたからなのか。作品の構造上の問題ではなく、おそらく意図的に誰かの力を感じさせない。一組のカップルの話として進むのではなく、後景にいるかと思っていたBAR湯の二人の女や、バンド三人組の話が前景に来たりもする、この入れ替りが「映画」なんだと思う。脚本のページが何枚か破られても映画が出来上がってしまうという逸話を信じたくなるような、彼ら彼女らの心情や動きが削られたり、もしくは見ている僕の集中力が切れてスッポリ抜け落ちてしまっても、ゾンから先へは進める。破れたページの合間に製作風景が、インタビューが、自転車に乗って回したカメラが紛れ込んで、何となくのゾンからの前進よりも、停滞した時間を共にした時に何を見聞きしたかが問われているような。長尾理世の手が視界を覆って、カメラは奪われたのか、次のカットでは男女がまた自転車に乗ってカメラを回している。振り返ると映画の調子が変化した時だったように思う。
青年が最初にカメラを向けた溝(『にじ』をすぐに思い出す)、「湯」、川の字、水のイメージたちが残る。最後の海に対してゾンを見出すのも、空を反射した水辺にまで描きこまれたゾンとは異なる波模様に感動もするけれど、どこか住民へのインタビューが切り返されてくるようにも見えた。

『独房X』(監督・脚本 七里圭)

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伯林漂流東京

 

泉浩一生前追悼上映会へ。『伯林漂流』ほか監督作は見逃す。

出演作の七里圭監督『独房X』。近未来を舞台にしたエロ版『羊たちの沈黙』のはずが、まるで収容所が舞台のアングラ劇を記録しているようだった。『サロメの娘』シリーズ、特に複数の舞台を行き来しながら(おそらく)娘が母のことを語っている『あなたはわたしじゃない』を思い出す。ひまわりも出てくる。未見の新作『入院患者たち』への期待も高まる。

原サチコの登場にはクリストフ・シュリンゲンズィーフ特集との縁に驚く。だが『独房X』はシュリンゲンズィーフのパフォーマンスの記録とは真逆の、何一つ気持ちの休まらない視線の迷宮と化していた。

鑑定する側が視線に晒され、相手の記憶を探るはずが自らの過去を晒す。モニターに映された女囚の映像に挟まれる、彼女の回想ともつかない謎のフラッシュバック。誰が見ているイメージかわからない。写真が誰の記憶を証明してくれるかわからない。牢の手前か、中か、どちらにいるのか不安になる、格子が張り巡らされたような画面。ビデオに記録された「2003」という数字が製作年とズレている。本作よりパフォーマンスの記録だと割り切って見やすい『あなたはわたしじゃない』にはない不穏さが満ちている。彼女が収容所をさまよう映画として、安心して謎を追うためにも明確にさせたい時制や記憶や視線が揺さぶられ続ける。

それにしても女性の身体が目に焼き付く。格子や窓越しに見える女囚たちから漂う倦怠感。縛られた肌に食い込む糸。女装した看守(今泉浩一)。彼に鞭うたれる、もう若くない所長の肉体。何よりヒロインの濡れた肌をタオルで拭う時間の長さは(上映後のトークによれば尺の都合もあったらしいが)省略の無さが生々しい。映画の観客として彼女の裸体を眺めれば眺めるほど、本作の視線に自らも巻き込まれていく怖さがある。彼女たちの肉体へ視線がまとわりついているようで、いきなり女たちが画面から消える時、彼女たちの収められていた空間の魅力に気づかせる。誰も座っていない椅子に彼女たちの痕跡を見て興奮するわけでもなく、椅子は椅子としてエロティックに見える。

七里圭監督の映画から『独房X』の女たちの裸体と視線の複雑な絡み合いが弱まって、代わりに音を残すように感じる。山本直樹の『のんきな姉さん』から三浦友和梶原阿貴にセックスをさせず、「同じことは繰り返さないんだよ」という声の優しさを残す。『眠り姫』から寝れば寝るほど膨らむ肉体を映さず、眠れずにやせ細る肉体をFAXされてきた線として見せ、男女の絡み合い喘ぐ声が官能的なイメージを呼び起こし、目覚めの叫びが逆に何かを思い浮かべようという時間を断ち切る。『あなたはわたしじゃない』の青柳いづみの身体と声の繋がりには、どちらが先にやってきたのか、どちらが置いていかれて消えてしまうのかと緊張もする。そして彼女の身につけた花柄のワンピースが記憶に残るように、ひまわりによって舞台と模様が繋がっている。『独房X』のバーコードをつけた囚人服とは違って、彼女たちの衣装は身体への視線を空間に散らす。

いつか会いたいと望んでいた、しかしまだ会ったことのない「母親」(原サチコ)の写真は、『サロメの娘』シリーズの長宗我部陽子にも通じていて年齢不詳だ。記憶の核になるようで、最も危うい地盤であり、映画内の時間を狂わせる物体になる。女性そのものでありながら、彼女たちの座っていた椅子でもあるような、既に痕跡と化しているような、「母親」と「娘」とは「時」を意識させるものであって、七里圭監督の映画では空間における女性の身体とぶつかり合う、不安を呼ぶ仕掛けかもしれない。

 

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