『王国(あるいはその家について)』(草野なつか)

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見直さずに印象で書くと後悔しそうだけれど『螺旋銀河』は、創作行為のプロセスを丁寧に追ったように思わせてくれた気がする。別に時計を見ながら体験したわけではないのに、分数ごとに、二人の主人公を行き来しながら、感情の変化や、すれ違いや不意打ちを喰らったような気がする。今となっては73分という数字を見て、時計が一周してから朗読の続く13分があったような、うろ覚えから書いた印象に過ぎないが。
一人の夢に自らを重ね合わせるのではなく、ただ二つのズレを見聞きすることが映画であって、『王国』も『螺旋銀河』も二人の人間が同じものを見ているわけではないズレが解消されずに渦が出来上がった(気がする)。ただ『王国』は「台風の目」にあって、『螺旋銀河』の二つの「対義語」となる人物が作る渦から更にズレているかもしれない。
いまはまだ見ていない約60分の『王国』が気になる。およそ60分の『王国』たちが複数存在する可能性とともに、それぞれの渦と渦がぶつかり合ってか、どの渦からも弾き飛ばされてかわからないし、そんな話は妄想に過ぎないが、どうやって150分の『王国』が出来上がったのか。愛知まで行かない自らの怠慢をまずは呪うべきか。
時間を刻む音が「裁き」のように、処刑台のギロチンのように響き、シナリオ読み上げのシーン番号は60を回って時間を刻むようにカウントされる。ジャンプカットがある。黒がある。ストローブ単独作、クリストフ・クラヴェールと組んでの映画のジャンプカットの話をするのは、中途半端にシネフィルぶった振る舞いであって間違っているかもしれない。それでも謝辞にあった堀禎一・葛生賢、両氏の名前から切り離せない。ただ、ストローブの映画(おそらく『コルネイユ=ブレヒト』だった。ちなみに『王国』を見ながら『コルネイユ=ブレヒト』の三回繰り返すのは間違いじゃないんだと改めて思った)を見終わってから桝田亮さん(数少ない面識のある「シネフィル」に相応しい一人)が言ったことを思い出した。クラヴェールは役者に視線の指示を出してるんじゃないかと。本当か? 調べようとしない自分は怠け者だが、冒頭、彼女は自分が書いたらしき言葉を前に視線をさ迷わせた。カメラに向かってか、言葉に向かってかはわからない。そのどちらでもないかもしれない。ただ視線と背景の光を見ているうちに、不意に画が飛んだ。瞬間、映画の中で自分がどの位置にいるのかわからず迷子になった気がした。
彼女は夫婦を前にゴダール『うまくいってる?』のタイプライターを打つ目線のように、文書の右から左へ読むように目線を移す。『王国』は、まるで子どもを見下ろすように台本を読む。子どもを死なせる、事故か他殺か、それは告白する人間次第かもしれない状況において、見下ろしていた言葉が他人の声から視界に現れてしまったように外部が出来上がっていく。読み上げる言葉から解き放たれる「アイコンタクト」の映画、「王国」の映画であって、同時にそれを目の前にすることの恐怖のような。それでも彼女が読み上げる姿は力強かった。台本の読み上げが、それぞれ声の聞こえる時、発声していない時、黙読なのか朗読なのか切り離しがたい時間と空間を作り上げていた。

『BLEACH』(佐藤信介)

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いぬやしき』は不快感が勝ってしまったが『BLEACH』には感動した。杉咲花福士蒼汰の過ごす原作序盤の日々のあれこれが、自主映画時代の『寮内厳粛』『月島狂奏』『正門前行』を連想させるくらいに膨らんでいった(WOWOWで見れた)。
原作を読んでいなかったら追いつけないんじゃないか(特にクインシーがどうの言う台詞とか)という心配が余計なお世話だと言わんばかりに、もう説明台詞以外何物でもない会話も繰り出され、早乙女太一とMIYAVIのコスプレは気持ち悪いくらいだが、そんな諸々が原作と読者たちの間に交わされたかもしれない夢想を(批評になっているくらいに)掬い取っている気がした。これは堀禎一監督のライトノベル原作映画、特に(今からちょうど10年前の)『憐』を思い出した。転校生、異世界の話題を繰り返す学生たち、誰かが記憶から消える終わりなど共通点はある(堀禎一監督はコスプレはさせないけれど)。『憐』の「未来からの流刑者」という設定をルールのように自らに課して周りと距離を置くヒロインの姿は原作の再現としてよりも、空想を日常に浸み込ませて生活する日々の繰り返しと化している。『憐』のルールが一体何のためにあるのか、なぜ彼女は何者かから命じられたルールを、自らを守るバリアにも用いているのか。そのバリアを『BLEACH』の、死神の力を失ったという杉咲花から感じられたことに動揺した。屋上の杉咲花と、彼女について少し離れて「普段どうしているのかな」などと噂しているクラスメイトたちのシーンが印象に残る。
何より『秋刀魚の味』のジョークが使われていることには、本当に佐藤信介監督は堀禎一監督のことを意識しているのではと思った。ただし、あの「あいつなら死んだよ」というジョークは『憐』のほうが批評になっている。『憐』は現在の学生たちの悪ふざけに移植することで、はっきりと笑えないこととして見せている。
杉咲花福士蒼汰の特訓は繰り返されるほど微笑ましい。押し入れとベッドでの会話に漂う寂しさは忘れられない。夜の部屋でノートの落書きを使って解説するシーンさえ、原作の再現という以上の、漫画として描かれた居候を恋愛描写にも傾けず、若者が空想を部屋で語っている。『万引き家族』も漫画かライトノベルが原作だったのではと思った(悪口ではない)。『万引き家族』のリリー・フランキー達だって死神たちの云々と同じくらいに夢を引きずっているようだ。
霊魂を既に喰われ、霊にさえならない母親の長澤まさみ肖像画のような遺影として登場する。あの写真の大きさは「漫画原作」という縛りとは別の、原作に対する距離を感じる。死後の世界なんか本当はない。あるのはただ、生きている人間と同じくらいの大きさの写真だけ。
個人的には吉沢亮が一番良かった。弓矢ひいたり壁に隠れたり、いきなり転校生としてわけのわからない話をしだしたり、何よりマクドナルドにいる姿がとてもしっくりきた。この映画のマクドナルドにはリアリティがどうの、スポンサーのことなど関係なく惹かれる。
ただ霊の登場する予感を味わう魅力はない(『ウィンチェスターハウス』にもそんな怖さはなかったが)。バスの横転には興奮した。竜巻と呼ばれるのが面白いけれど『ピートと秘密の友達』見直したくなる。

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『夜の浜辺でひとり』『それから』

 

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夜の浜辺でひとり』、見返す度に印象の変わる映画に違いないけれど、ひとまずキム・ミニの異物感に尽きる。ハンブルクという地名が頭に残らない(英語ならばどこでもよかったのか、単に僕が地理に疎いかボンヤリしていただけか)前半部の、画面に漂う空気の冷たさから掴まれる。あとはもう彼女を見ているだけで満足なくらい。ぶった切るような幕切れが突き放されながらもポジティブになれた。にしても最後の酒席での爆発が、ただキレたというわけでもないのに凄まじかった。場の空気を変えてしまうおかしさや気まずさなら見覚えがあるけれど、それとも違う。ともかく男を泣かせるのに、まるでいきなり銃を抜いたくらいのスピードというか反射神経があった。書籍などフェイクに違いない。何度も繰り返された食事と酒の席の積み重ねかもしれないし、いつになく犯罪による逃亡者の映画、もしくは濡れ衣を晴らすためとも、復讐のためとも読み取れるような旅であって(もしかしたら『黒衣の刺客』やモーリー・スルヤの『殺人者マルリナ』と並べられるかもしれない)、しかもあんなオチが待っている。最後の横たわった姿から立ち上がって去っていく後ろ姿はヘンテコだし笑えもするけれど勇気づけられる。ただ映画館の客席から立ち上がって退場する彼女のカットは、ホン・サンスの映画の中では例外的なくらい「普通」だったと驚く。そのあたりの印象と実際の画面のズレは相当デカそうなので、一回見ただけで適当なことを書いたら後悔しそうだが、いろいろわからない映画だった。

今のところ『それから』のほうがさらにとんでもなかった。『夜~』のキム・ミニは一秒も目を離したくないくらい魅力的だけど、『それから』は最初の印象よりもどんどんと美しくなって感動する。中華料理屋の窓辺にいる彼女を逃さないために思わずカメラがちょっと寄ったみたいな瞬間が、実は偶然じゃなく計算なのか判別できないが、そのまま『夜~』終盤を反復するような、テーブルを挟んだ男女を行き来うパンへ移っていくところが妙に怖い。男の笑い声が耳に残る。

ここまでヘンテコな時間が過ぎていく映画はコッポラの『ヴァージニア』以来な気がする。そして清水宏の映画も思い出した。『万引き家族』は清水宏を参照していたかもしれないが、それでも『それから』のほうが狂っている。夜道を家に帰らず、いきなり泣く中年男性が全く無垢な存在に見えないのに、なぜだか清水宏の少年のようだった。おうちに帰れない人々の映画なのか。にしても彼を呼び止める女の声は誰だったのか。
『それから』というタイトルは予想通りというか、最後の手渡される夏目漱石の書籍から来ているけれど、これも「タイトル考えるの苦手なんで」というユーモアにも、逆に答えの出ない謎を映画にかけられたようでもあって、とても良かった。
「忘却」というテーマはホン・サンスではおなじみだし、チョン・ジェウンの『蝶の眠り』にもあったが、やはりキム・ミニはホン・サンスの映画においては半分迷い込んできたような、溶け込み切らない魅力がある。彼女が男に「私を忘れたんですね」という時、そして「アルム」という名前を男が思い出すのには素直に感動する。その後も彼女が男に対して「前にいただきました」と返す時、突き放した冷たさなのか、優しさなのか、まだ経験の少ない僕にはわからないことなのか。ただ、これ以上交わす言葉はたぶん見つからないし、もう語る必要もないようだった。それでいて謎めいている。これが映画の余白なんだと思った。

 

『ソレイユ・スリヤン』(黒川幸則)

黒川幸則監督撮影・編集『音楽室』『音楽室2』『花見』『ソレイユ・スリヤン』。ダウン症の少年少女たちの、楽器を叩いたり投げたりノイズ音楽映画から始まって『音楽室2』『花見』の少年少女のスキンシップ、そして『ソレイユ・スリヤン』のお絵描き。『ソレイユ・スリヤン』が展示された絵の製作過程というか、ただただお絵描き遊びに熱をあげて、もう何の道筋も示されていなくて清々しかった。『音楽室2』の触れ合いは見ていてドキドキする。際どい言い方だけど、もし大人の男女の恋愛として見たら相当に色っぽい気がするけれど、覗き見趣味としてではなく、これぞ映画の官能表現だと思う。彼らの音や絵のように、触れることが多くの意味を語らず表現になっている。この少年少女に限らず『花見』でも彼らの人の触り方がどれも画になっていた。マットを広げ、少年は靴を手に(少女の履いた靴を脱がそうと触るのがまた良い)、少女は『妖怪ウォッチ』の画を手にして、座って遊ぶ。いくつもの四角がいい。それでも誰も横になっていないけれど、なぜかカメラが横になって、まるで寝ながら見守るような時間が充実していた。そして観客の視点は羽ばたいていって、桜の花びらになれたように締めくくる。

『夜が終わる場所』(宮崎大祐)

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たしか2012年に見た時は苦手だったが、昨日見直したらとても面白かった。個人的な印象の域を出ない感想だが、5年以上経った今となっては新作としてではなくVシネやピンク映画(若松プロとか)の忘れられていた一本が再上映されたのを見たような、受け入れるために必要な時間があったのかもしれない(単に自分自身の変化とか体調の問題も考えられるが)。迷彩服の風俗嬢がモデルガンを抱えた姿に、5年前は上映されていなかった『白昼の女狩り』を連想させて禍々しいけれど、それこそ『朝日のようにさわやかに(愛欲の罠)』と対になるようなタイトルが、初見では大和屋竺鈴木清順への意識を恥ずかしく一方的に嫌ってしまったが、25年の時間を三件の殺しの現場によって振り返る冒頭から、十分にワンカットごと気合が入っていて清々しい。干されたシーツにかかる血も、割れる花瓶も、地べたで蛇のように動くリボンも、ミイラも、殺しの数々を忘れさせない。上映前のトークで聞いた通り、たしかにロケーションも魅力的で、特にプラネタリウム(?)なのか、距離感を狂わせる銀河系のカーペット上での男女の再会と切り返しからの暗転、そして地下水道、夜の森林と続く終盤は素晴らしかった。もう殺し屋映画なんか真剣に撮っても冗談扱いされると言わんばかりに斜に構えたところもあるけれど、「俺は、そこにいた」と「その夜を忘れないで」の二言をきっかけに悪夢から解放されて着地点を探し、そして杖を捨てて歩き出す後ろ姿は『大和(カリフォルニア)』と重なった。

小林耕平『あくび・指南』

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YAMAMOTO GENDAI

毎度のとおりなかなか楽しかったが、いつも渡邉寿岳撮影の「対話型の鑑賞記録」を見ていて笑えつつ眠気に襲われるので、タイトルになるほどとなった。『殺・人・兵・器』(だっけ?)もポンコツ永久機関となった展示品にはまって鑑賞者が死に至る、ある種のゴキブリホイホイ、蝿取り紙みたいな目的の装置が仕掛けられている(そして市販の置き型虫除け同様に効果の程は疑わしい)。ちなみに今回は昆虫ゼリーが重要な役割を担っているが、いずれも映像とともに弛緩した時間が経過している。催眠装置としての展覧会と、眠るための映画館の中間というか、どちらでもない空間。ある意味、遊戯場として半端な公園に寄った気分もするが、やはり一筋縄ではいかないカメラマンによる映像の力が観客を捕獲するための装置に思えてくる。渡邉寿岳の撮影はたむらまさき小川紳介、『ユリイカ』の長尺になくてはならない存在だったように、小林耕平と鑑賞者たちの予定調和とも即興ともつかない掛け合い、真剣とも冗談ともうまく形容できない会話と同調せずに見つめている。あえてギャグが決まらず常に反応は間に合わず引き延ばされてしまったような。渡邉寿岳さん御本人の笑顔をほとんど見た記憶がないが、小林耕平たちも笑わない。

『ピンパン』『ライセンス』(監督:田中羊一)

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シネマ・レガシー vol.1

Cinemalegacy01

ピンパン』も『ライセンス』も、『そっけないCJ』の夏休みの愛しさや切なさと比べて(あまりにグッときて素直に良いと言えないままの『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』と同じく、あんな映画を誰でも一度は撮ってみたいと『キングス・オブ・サマー』よりずっと身近で大事に思うんじゃないか)、女性の物語として面白いのかはわからない。卓球台をめぐるマシンのいくつかに向けた目のように、彼女たちに関する、もしかすると想像の域を出ないマンネリなだけの出来事が、すべて異物として見える。そこに驚きや発見があるというわけではなく、ただ卓球とゴーカートと女性の生活が並置される。文字がタイトルや標識の一つとして、まるで違う国を見ているような、というより言語の通じる国の外から見ているような距離が一貫している。しかし『CJ』シリーズのように秘密基地を作れるわけでもない。映画からやってくる言葉は球や道具のようには役に立っているが、映画を見た自分からはたいした言葉が出てこないことが、『ピンパン』の卓球と同じくリズムに組み込まれてしまうような。ひたすら勝負の姿勢に徹していて潔いけれど『ピンパン』には居心地悪さ、身の置きどころのなさ、『そっけないCJ』『CJ2』にあったモノローグ後の余韻に浸りたくても出来ない寂しさもある。

田中羊一監督について、あるかたが『CJシンプソンはきっとうまくやる』と『少女ムシェット』の最後が重なったと話したことを『ライセンス』見ながら思い出した。彼女たちの佇まいと、ブレッソンの名前を繋げたいわけでもない。ただその記憶に映画もヒロインも救われたような愛しさが『ライセンス』にはある。『ピンパン』の15分より『ライセンス』の5分の方が好きだ。何様だと自分でも言いたくなるが「わかるよ」と、どれほどの距離があっても一周して声をかけたくなる。いつか『CJ』シリーズと『ピンパン』『ライセンス』を一緒に見たい。