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熊谷守一轢死』、変色その他の理由による黒さがかえって目をひく。それが真っ黒でもなくじっと見ればぼんやりと輪郭は見え、また立体的でもある。
展示のキャプションその他から興味深い情報はたくさんあるが、何より小田香監督の『鉱』を思い出した。炭鉱を撮った映画は、闇とヘッドライト、照らされては沈んでいく炭坑内の人肌からペットボトル、リンゴ、水滴、土といった流れが映画を油絵のようにしているのかもしれない。

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『オレの獲物はビンラディン』が妙に後を引く。社会風刺的な要素として受け取れるものは、ほぼほぼない。ニコラス・ケイジの起用はヘルツォークやポール・シュレーダーあたりへの目配せなんじゃないかという気もするが、その二人がもしも監督していたら、良くも悪くも灰汁の強い映画になっていたと思う。むしろ本作は(一本しか見ていないが)ジャド・アパトーのコメディってこんな感じなのかな、という要素もある。「大枠実話」という触れ込みと、冒頭の「この人物は我々観客と同程度に狂っている」(大意)というナレーション通りではある。特に同棲相手(というより理由を付けて転がり込んだだけ)とその娘との関係を含めて、ニコラス・ケイジも彼女たちも予想以上に繊細に演じている。勝手な想像だが、たぶんこの中年男女のカップルが実在したとして、その関係はもっとタチの悪いものだと思う。だが二人を馬鹿にすることも、突き放すこともなく、適度に親しみやすく、現実はもっと惨めだろうけれど映画として見るならばこれくらいが丁度よいんじゃないかという、不思議と説得力ある関係を見せてくれる。その塩梅に感心した(相変わらず上から目線だが)。彼はGODとビンラディンをめぐる夢から何度覚めても戻ってしまい、結果ヒロインと娘との暮らしのほうが夢だったかのように覚めるギリギリで映画は終わる。本当はこのバランスをパレスチナの人々に向けるべきなんだろうけれど、どれだけパレスチナで気さくに振る舞って「心が広くて良い人ばかり」と言っていても、たぶん視野は狭まるばかりな主人公に映画も合わせているんだろうと思う。

 

もう見るのは遅すぎるし何の発見にもならないし無意味な自慢にしかならないかもしれないが、ジョー・サルノ『A Touch of Genie』Blu-ray購入。ポルノの観客が、骨董品の壺を触ると登場する妖精の魔法によって、ポルノの登場人物になって性交する。妖精は壺から飛び出てくるわけではない。おそらく飛び出てきたという設定で、脇からひょっこりフレームインする。そして魔法によってスクリーンに入り込むわけではない。おそらく夢の世界へ、という設定で人物は妖精から手で押されて、クルクル自分から回りながらフレームアウトして、劇中のポルノと似て非なる同レベルのセットへクルクル回りながらインする。別にこれといった工夫のある演出というわけではない。ままごと染みた遊戯がエクスタシーへと通じていくのは『濡れた牝猫たち』でも見た。一本でもジョー・サルノの映画を見ていたらわかるが、密室での儀式は自らを解放するセックスのために常に繰り広げられている。終盤、ある女性の訪れを告げるドアのチャイムが鳴った時、その音が妖精の現れる効果音と同じだと感動してしまうのは、映画に対して甘すぎるかもしれない。
ジョー・サルノの映画は画面内の人物配置が一貫している。誰かを覗いている、もしくはどこともわからない誰もいない画面外へ視線を向けている、場合によってはただただ内省に浸っている人物が手前にいる。その斜め後ろから彼、彼女を見つめる人々が続く。ショットにおける構図が決まっているだけで、ある程度の演出が維持される(ベルイマンとか関係あるんだろうか、わからないが)。ジョー・サルノの映画における人間関係は、この配置によって決まっている。というか、おそらくそんな関係しか出てこない。言うと理解の足りなさを露呈するだけだが、アルトマンとか増村保造とか知らぬ間にシンクロしているのかもしれない(どうだろうか)。その構図はセックスか別れしか生まない印象が残る。消耗する関係。ともかくこの構図と物語を真似して作りたい演出家は絶対にいると思う。映画にフレーム外への広がりはもたらさないが、ショットを続けることはできる。狭い範囲で消耗し続ける映画。息苦しさが演出と一致している。
映画は演出上の品位を維持しているようで、意外となのか、予想通りなのか、トラッシュとしか言いようのない乱れかたをする。予告を見て、日本版DVDの画質とまるで違ったから『オカルトポルノ 吸血女地獄』のBlu-ray(洋盤)を購入して、ちょっと見直した。冒頭のダラダラした儀式の印象しかなかったが、やはりというかなんというか儀式のパワーによってか操られて痴態を晒すマリー・フォルサの入り込むリズムは興奮する。はたしてこの興奮は終わりまで維持されるのか。僕の記憶と予感では、一時間ほどで力尽き、そして儀式の弛緩した時間に全ては飲まれていくのだろう。
他の多くの日本人と同じく「ソドムの映画市」から気になっていた『熟れすぎた少女ビビ』の、草原での追いかけっこから、不意に枝をつかんだ女が背中を叩くことによって始まる、ひどく軽い初めてのSM。僕は『昼顔』のドヌーヴより忘れられない。鞭の激しさも、そこから目覚めて平然とした顔に繋ぐ編集がブニュエルの洗練だとわかっていて、その巧みさに比べたら、この嘘くさいプレイに誰がどんなショットを繋げるべきだったのか。
こんなことを書いて発散している場合があったら、『早熟』を見直せばよかった気がする。

 

『WATER MARK』(中川ゆかり)@海に浮かぶ映画館

船に乗せられた人々についての舞台。客席と舞台を共有する揺れと寒さについて、「寒くないですか」と聞き続ける。「寒くないですか」という言葉が視点を切り替え、役者が羽織ることになる衣裳が床に、まるですでに脱ぎ捨てられていたかのように落ちていることに気づかせ、誰かがいたという痕跡を印象付ける。誰か。からゆきさんたちだ。これは、からゆきさんについての芝居だ。客席と舞台との視線の行き来は、衣裳からの眼差しに切り替わり、衣裳を身にまとう女性は視線を引き受ける。『LOCO DD』大工原正樹編のFantaRhyme、『南瓜とマヨネーズ』の臼田あさ美、『夏の娘たち』、『エル』。それら別々の異なるアプローチの映画たちを同時に思い出す。

役者が客席に向けて語るように、舞台はストーブによって会場が暖まる頃には終わるという。だがストーブをつける前後、役者は船という場所で水の上を漂う感覚を共有するために「眼を閉じる」よう呼びかけていた。あの間に、もしかするとストーブの火は消されていて、『日本春歌考』(大島渚)のように、一酸化炭素が会場を満ちていくまでの時間と化していたかもしれない。会場を満ちていくのは冷気と揺れ、震えだった。震えが集中力を研ぎ澄ます。しかし頼りなく怠惰な自分はまだからゆきさんたちについて語るために学ぼうとしていない、彼女の朝鮮訛りの言葉を記憶できない。確信犯的に、運動する役者と客席との間に温度差ができる。役者が「あたたまってきた」という時に、客席はまだその地点に立てていない自らを問われているのかもしれないが、挑発的なものとして捉え過ぎかもしれない。あくまで自らのいる地点を各々が捉え直すものとしての舞台かもしれない。

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『ある惑星の散文』(深田隆之)@海に浮かぶ映画館

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これほど船に乗って見るために作られた映画はないと思う。深田監督は自らの作品の上映に最もふさわしい場所を知り尽くした戦略家なのかもしれない。だがそんな狙いだけじゃなく、作品のそこかしこに見え隠れする別の作品たちが「海に浮かぶ映画館」にて上映されてきたことを思い出す。そしてあらゆる映画が船の上で上映される可能性をひめていると気づく。まるで「海に浮かぶ映画館」にいるかのように、脱出できない緊張と、酔ってしまうんじゃないかという不安とともに、揺れと雑音を包容しながら、漂うように、自らにとっての船出として、または停泊所として、常に映画は見られるべきなのかもしれない。
実際、『ある惑星の散文』は漂うように時間が過ぎていく。映画の人物たちは距離を打ち消そうとスカイプをしているのかもしれないが、スカイプの待ち時間は焦りとも期待とも不安とも関係なくパソコンの前に存在する。客の忘れ物を届けるために走り出せば、彼女の走る距離と走る時間とが存在する。急ごうとする人物たちに対して、時間も運動も早くも何ともなく、ただ過ぎていくことを示すようなショットが続く。

舞台挨拶にて女優の中川ゆかりさんが言うように、距離に関する映画だった。フレーム内での人物たちの距離は、スカイプ越しだろうが、窓越しだろうが、テーブルを挟んで向かい合っていようが、遠かろうが近かろうが存在する。もっとわかりやすく言えば「すれ違い」だ。

それまで一緒にいた人物たちをカットバックにする時、距離を一層際立たせるとも見える。だが逆に、同一フレームにおいては両者の間に開いていた距離が、カットバックすることで互いを向き合わせているようにも見える。また時折、人物をフレームに放り込んで突き放したような距離さえある。しかしその距離こそ人物たちに動く可能性を与えてもいる。だから、その突き放しかたはとても優しい。またどれだけ突き放されても、人物はフレームの外にはみ出す余地を多少わざとらしくとも与えられている。
部屋の窓から見える景色。この距離は今までの映画で見てきた、遠方に去った人々を見送るような風景たちを思い出す。だが映画は美しい遠さと同時に、苦しい近さもつきつける。
中川ゆかりさんが兄の前に立つ舞台はただただ素晴らしい。

南瓜とマヨネーズ』は『亀虫』や『シャーリー』のような連作の中・短編のようにも見えて、そこが良かった。別にリンチのように語りを断ち切っていくわけではなくて、男女が別の映画の人物になってしまったかのように変わって見える。そう書くと『ロスト・ハイウェイ』みたいだが、一人の人間が分裂するのでも、分裂した存在が一人になるのでもなく、あくまで別々の男女が存在していて、それが一つのバンドやカップルにもなる。そのバンドやカップルの組み合わせが変わるごとに映画の人物も変わっていく、というわけではない。バンドが解散するわけでも、はっきりしたカップルの別れがあるわけでもない。ただいつの間にか映画の人物は変わってしまっていて、カップルとしての継続が困難になったり、バンドとしての継続を維持していたりする。別の映画を見ていても、以前見た映画の人物が名前を変えて存在し続けているように、もしくは単純に映画同士が似通っているように、カップルもバンドも人の流れも別れも存在する。

いくつかの視線の繋がらなさや、鏡の存在や、誰が見ているわけでもないが視線と欲望に晒された足や、または再生動画や、消える音や、それらがどれもわかりやすいほどに視線を送る側と受ける側との間にあるものとして心情や愛こそ曖昧であってすれ違うと示す。ただ送る側が欲望を向けて、相手が受け取ったとして、それは金銭とコスプレの関係にもなる。体操着を身に付けた相手が吹奏楽部出身だと聞けば満たされないものが、スクール水着を用意させ、水着を着るだけじゃ満足できるお金は渡せないから、それ以上のことを要求する。そのあたりのことは頭が僕も追いつかないので、うまく書けない。ただ臼田あさ美だけでなくカップルにバンド、それぞれが相手を多少なりとも裏切る反応をする細やかさに力を入れているから刺激的だった。

しかし死んだ子どもから見つめ返されているような気がしてくる。移動中の車内において楽曲への言い合いから不意にドリルが取り出されそうな気がする。問題はそんなレコード会社へ向けたような妄想ではないのだろうが。

中川信夫『影法師捕物帖』、西部劇、ソ連映画ドイツ表現主義をワンカットごとに横断し、アラカン田沼意次に刀を突き付けては何事もなかったかのように次の場面へ移って、また田沼に説教を繰り返し、どっから屋敷へ入ってきたかわからない相方がインしてくるあたり、完全にコメディ映画と化しているけれど、たびたび決着の映されない立ち回りの繰り返しの果てに伊藤大輔へのリスペクトが炸裂するクライマックス、アラカンはきっとまた観客の見ぬ間に切り抜けてくれるに違いない。