ジョン・ウィック チャプター2』には感動した。『ローガン』も『20センチュリー・ウーマン』も『夏の娘たち』も凄まじかったが、どれも最初からずっと良かった。でも『ジョン・ウィック~』は(別に我慢したわけでは全然ないが)最後まで見て感動した。今更だが映画を見て人物が何を考えているかとか、人物のやってきたことと自分とに重なるところがあるとか身につまされることもあるから感動もするけれど、この映画ではただただキアヌ・リーヴスに見惚れた。それほど、もしかするとガス・ヴァン・サントと組んだ時以来、最も美しい。映画の理想的な中心になっているんじゃないかと思う。そんな彼が取り返しの徹底してつかない領域に踏み込んでしまうとわかってはいても、もう止められないんだというシーンで、久々に誇張でも何でもなく泣いた。あとはもう彼とこの映画を見送るだけだ。
映画の人物が徹底的に取り返しのつかないことをしてしまうとわかってはいても観客は止められない。そしてその道行の少し前に時制が若干乱れるのは『ジャッキー・ブラウン』を見た時と個人的には通じ合う体験だった(明らかに狙いは違うとわかっているが)。浴槽における自殺も、バーカウンターでの殺し屋と交わす一杯も、鏡の間での標的が自らの顔を見るのも、抑制された演出と言っていいものでも何でもないけれど、次々と退場を余儀なくされる周囲の存在を人間らしい人間と思わせるほど掘り下げようと試みなくても忘れがたいものにする。ついにペン捌きの炸裂する瞬間、また終盤再びキアヌ・リーヴスの前に炎が現れた瞬間、震えた。

中原昌也個展@WAITINGROOM
コラージュ、絵の具の盛られた量は激しく、告知WEBやアルバムのジャケットだけで感じ取れるわけがなく、意味のない比較をすればゴッホを日本の美術館で見るよりかショックを受けた。それは糞ではなく、イッてる女性の喘ぐ顔、乳房、乳房だけじゃない、肌という肌を剥き出しに切り取られた女性という女性の手足、そして猫の瞳。『ソドムの映画市』のセクスプロイテーション映画をめぐる章から受けた衝撃や、氏がこだわり続けるジェス・フランコ鈴木則文という(僕にはやはり語りきれない)「ポルノ」の作家を思い出すまでもなく(神代辰巳曽根中生を並べることも可)、紛れもなく恥ずかしげもなくポルノ(補正された猫の瞳は無修正を売りにした性器と変わりないのだ、猫ブームに死を!!!!!)。改めて無数のやるせない存在へのこだわりに圧倒される。しかしコンビニの袋とじを開封するだけで暴かれる恥部によって飼いならされた先に抵抗する力を失うなどということだけはあってはならないのだ。廣瀬純氏の語る清順とリンクする。桜を眺めるかのようにポルノと猫の瞳を切り抜きながらこの国に生まれたことを恥じる。ここに積もる塊はどれもがプリクラのキラキラした目と一番似ている(しかしイッてる女性は瞼を閉じて口だけはあんぐり開き、画家の描く人物は白目を剝き出しにする)。興奮などしない。女性の乳房に意味を見出さない。ポルノにつきまとう孤独感さえ切断する。隠すことも晒すこともなく露出のエロにこだわることもなく、ポルノが切り取られ描かれ塗り重ねられる。この裸体は視線に反射をすることもなく、裸体を肯定することもなく、しかし困ったことに美しさを感じる。クローネンバーグの改造された肉体、というより脳が爆発し血潮の飛び散る瞬間に近いのか? そこに間違いなく存在するクリエイティビティさえ、所詮は精液の香りを漂わせるだけと消え入りそうで、しかしドス黒くてんこ盛り。やはりゴダール3Dとの接点なのか。

会期中、制作され続けるキャンバスには、豹たちの後ろ姿が描かれていた。キラキラした瞳の猫にはない佇まい。これぞユーモアなのだと突きつけられる愛らしさ。

「世界に杭を打つ 上映会vol.1」へ。

三浦翔『ラジオ・モンタージュ』は、タイトル通りといえばタイトル通りの映画になっている。正しく「切り返し」についての映画。その切れ味だけでいえば『親密さ』より遥かに、誇張して言えば初期ファロッキ見た時のように刺激を受ける。こんな映画が絶えず作られるべきなんだろう。国歌斉唱をするオーディションという『人間のために』の「安倍太郎」に続きわかりやすすぎる設定から始まり(そこが好きなんだが、しかし「起立」でカット割るのはあんな単純でいいのか、再見したら、あれでいいってなるかもしれないが)、ラジオ局に見えない空間からのラジオとタクシーの切り返しを経て、声と言葉のズレは増幅していき、トンネルに入ったタクシーこそスタジオのごとくシャウトしたくなる空間へと変わっていく。

清原惟『音日記』は『わたしたちの家』のように落ち着かないところで終わる。ひとつの空間が二つの時間に引き裂かれる(いま思うと『最終絶叫計画4』の『呪怨』の日本家屋と『宇宙戦争』の家が同一空間にされているのを強引に連想できる)ように、二人の同居人の物語は分裂していき、彼らの間のキャッチボールは、一人になって壁打ちによる居心地の悪さへ向かう。その終わり方で本当に良いのか、よくわからないけれど……。にしても『わたしたちの家』の『ドント・ブリーズ』になったみたいな終盤も驚いたが、『音日記』もアクション寄りのホラーになっていくあたり、かなり盛り上がる。球の落下で音が消えるのは微妙に感じたが……。かつてバロウズがカセットの登場を機にもっと混沌とした世の中になるはずだったと嘆いた記憶があるが、『白夜』の「マルト…」、ペンギンを壇上から地下水路へ引きずり下ろしたバットマンのように、その混乱を実践した映画かもしれない。

4/30の夜勤明けはアドルフ・ヴェルフリと斎藤大地特集にした。本当は小田香特集にしたほうがよかったのかもしれないが、行いが悪いからか記憶から消えてしまった。やはりヴェルフリだけでなく小田香も見たほうがより充実できたかもしれないがヴェルフリと斎藤大地を見れたのは良かった。普段見るものとは違うものを見れたという気がしたからだ。斎藤大地も黒画面とフリッカーの作家と言ってしまえば代わり映えはしないかもしれないが、たとえ人にはおなじようなことをいつまでもやっていると言われようと何しようとやりたいことがある、という気分に浸る。ヴェルフリのように文字も音符も数式も色彩も言語になるのだ。斎藤大地のように誰が撮ったのかもわからない画が点滅し黒画面が画面として引き締まっていくほどに言葉足らずであっても映画になるのだ。そのどちらにもリズムがある。

中川信夫紀州の暴れん坊』を遅い松方弘樹追悼のついでに見たが、『三四郎』とならぶ青春映画だった。そしてまたもホイット・スティルマンとアイヴァン・パッサーがよぎった。石川啄木天一坊のように、吉宗を題材に愛すべき人々の行き交う、そして若き日々が儚く花のように散るまでを追う傑作。

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そうは言っても真に清順の言葉を形にしているのは清順の映画だと『暗黒の旅券』で思い知った。まあ、勘違い、思い込みばかりで無茶苦茶書くくらいしか自分には脳がないので、清順の発言のほぼほぼ何一つ瀬田なつきの映画には当てはまらないとわかって書いているから……。そして、やはりオカマの映画である。「『けんかえれじい』を語る」(『夢と祈祷師』)にて語られる主人公と脇役との関係は、かなり本人の言葉と映画そのものが一致しているように思える。『暗黒の旅券』は主人公とされる人物が事件そのものからことごとく置いていかれ、影だけが、声だけが、ずれたように残っていく。頻繁に繰り返されるリアルな時間経過を無視したようなオーバーラップの使い方が、ますますその感覚を助長する。麻薬中毒者の女性の声が凄まじい。彼以外の人物が殺し合う終盤。そしてオカマと姉の物語。

夜勤明けのため正直字幕がうまく頭に入らなかったがシャンタル・アケルマンもまた『No home movie』で、一周して若返る境地に達していたと思う。カメラを持つ手が震えようが、フレームが四角いということと同じくらい、映画は揺るがない。二階から見下ろす先にある椅子だってヴァロットンのようだ。スカイプ越しの画面さえ醜くなく窓になっている。荒野と家を行き来するうちに『アメリカン・スナイパー』がよぎる。そして靴紐を結び直す。明らかに映画は母も娘も消えてしまっても、あの家と窓と同じように残る。どこか辛辣な面こそ受け止めるべきなんだろうと思いつつも、ただただ爽やかな気分で向き合いたい。