『潜熱』

映画を見るたびに覚醒を促される。目覚めるために映画を見る。スクリーンに向けて目を開くために、もしくはスクリーンの外へ、現実へ目を向けるために、映画を見る。しかし現実は映画を見ながら寝てしまってばかりだ。もしくは映画だけ見ていれば満足と言わんばかりに夢を見続ける羽目に陥った。

『潜熱』(三毛かりん)は、事故によって目覚めることのない女性の周りで、彼女の目覚めを待っているような男女の映画だ。しかし彼女が眠り続けている限り、彼、彼女は現実に目を背け、夢を見続けているようでもある。

おそらく彼女は二度と目覚めない。そして目覚めない彼女に対しても、彼女が目覚めないことに対しても、映画はあまり現実的な態度は向けていないようでもある。むしろ映画が、もしくは(くだらない推測だが)映画の作り手が、眠り続ける彼女そのものに重ねられているような気がしてしまう。成瀬以上にあからさまな交通事故の存在。どことなくこっぱずかしくもなるモノローグ。自らの感性に忠実な音楽の使い方。『潜熱』もまた映画の男女に、観客に、覚醒を促す。登場人物は眠りの誘惑と、彼女を断ち切って目覚めることとの間で葛藤している。同時に映画そのものが目覚めなきゃ、目覚めなきゃと葛藤している。夢と現実の境界で、多少の恥ずかしさは隠すことなく、情熱は内に秘めながら、料理をし、酒を飲み、愚痴をこぼすことを繰り返す。そして夢も現実も、どちらも愛しく見ようとする。まさしく映画そのものだ。そして映画から正しく学ぼうという(僕自身には足りなかった)真っ当な姿勢を感じる。今すぐ劇場から飛び出して、陽の光を浴びたくなる。

森はるか監督『息の跡』と、小森はるか・瀬尾なつみ監督『波のうえ、土のした』を見て、ペーター・ネストラーのことを自分が少しもわかってないことを改めて思った。この映画に出てくる人たちの、もう土に埋められてしまう場所に花を植えようという彼女の、夫に何を言われようと「やらなければいけないことなんだ」と言うことについて、佐藤貞一さんから話しかけられるように「わかるか」と問われたら、適当な返事をしてお茶を濁してしまうのだろう。ただネストラーの映画から受ける感触とはこれだったんだ、と図々しく言いたくなった。ネストラーの映画では言葉が重要だとわかるのに、しかし言葉をほぼまったくわかってなくても良いと思う。当たり前だ、映画とはそういうものだ。しかし自分はまだ、ネストラーの言葉も、佐藤貞一さんの言葉も、小森さん瀬尾さんの言葉もわかっていないのだ。佐藤貞一さんが言語を学び、小森さん瀬尾さんの映画に言葉が記されることと、ネストラーが人々の語る姿を撮りながら、同時に自らの言葉を重ねていくこととが繋がっている。

青山シアターの『二羽の鳥、徹夜祭。』(菊沢将憲)と、DVDの『悪魔の棲む家PART3』(リチャード・フライシャー)。どちらも幽霊屋敷映画。ありきたりな感想だが今は『二羽の鳥~』の現実にあったような記憶だか、実感だか、それとも映画で見たような記憶だかが曖昧に思い出されるようなやり取りよりも、『悪魔の棲む家~』の友人たちとボートに乗って湖へ向かう娘と、それを別にたいしたこともなく偶々すれ違うように帰ってきた母親との距離の、見た時よりも思い返して悲しさのこみ上げてくるカットは、これぞ映画でしか見られない演出なんだと思う(篠崎誠『SHARING』の取り返しのつかない感情が徹底されたような)。そういえば同じく3Dの『さらば、愛の言葉よ』(ゴダール)終盤のロングショットの船出みたいに、これまで見てきた映画の美しい瞬間を思い出すような別れと旅立ち。『禁断の惑星』(ジョン・ブアマン)と結びつけたジョー・ダンテ『ザ・ホール』も3Dだった。

夜勤明け。

グスタボ・フォンタン特集@アテネフランセ文化センター。

『樹』を10分ほど遅刻。そして二度目の『底の見えない川』。

『樹』は今のところこの監督の映画で一番好み。やはり『マルメロの陽光』意識してるのか? 『底の見えない川』は恵比寿映像祭ぽさ(牧野貴とか)が初見より増したが、どことなく映像の連なりのセンス(もしくは漠然とした物語のような何か)に惹かれる。あと何かあると樹ばかり映るのは木村卓司さんの映画を思い出した。

上映後、ガスト。

夕飯後、『ヴァンピロス・レスボス』(ジェス・フランコ)。なんとなく思い出したので。